西の魔女が死んだ/ネタバレ感想 昔読んだ小説と、映画の印象の違い

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今更ですが、映画「西の魔女が死んだ」を鑑賞しました。原作小説は読んでいたのですが、妻が「これ観てみたい!」とチョイスしたので。

原作小説の思い出

原作小説を読んだと言ってもかれこれ20年近く前。たしか高校の図書室で借りて読みました。
懐かしいなあ。手に取った理由は、ずばりタイトルが気になったから(笑)
ファンタジー小説かなにかと勘違いして手に取ったけど、裏表紙のあらすじをみるとどうも違うっぽい。でも、案外面白そうな内容だな…と借りてみたような記憶があります。

当時は大きく「名作だ!!」と騒いだりすることもなく、「いい話だったなぁ」くらいの印象でした。でも、なんだか妙に心に残っています。

なにしろ、十数年前に一度読んだだけの記憶なのでわりと曖昧ですが、僕がこの小説と映画の両方を味わい、印象に残っているのは以下の点です。

  1. ナチュラルライフな生活
  2. ゲンジさんのまがまがしい存在感
  3. 魔女修行
  4. ラストに感じた感動と不安

それぞれについて述べていきます

ナチュラルライフな生活

高校生の時一度読んでそれっきりだったのですが、おばあちゃんのスローライフ、ナチュラルメイドな生活には妙に引きつけられました。
それも、手に入れようと思えば手に入れられる、絶妙に現実感のあるナチュラルライフです。(通勤の問題さえ何とかなれば…)

科学技術や情報を最低限に遠ざけ、家庭菜園の野菜を慈しみ、手作りの料理を愛する。
「なんだかいいなぁ」と憧れたのを覚えています。

そうそう、僕が時々思い出したかのようにジャムづくりをしてるのは、今思えばモロにこの小説の影響だったんですね(笑)
映画ではカットされていましたが、大きな鍋でお湯を沸かし、ガラスのジャム瓶を次々に煮沸消毒していくシーンをよく覚えています。我が家でジャムを作るときも当然この“儀式”は行います(笑

…それにしても、「野イチゴ摘み」より「煮沸消毒」にときめくなんて、理系人間の僕らしいですね。。

ゲンジさんのまがまがしい存在感

ある意味この作品を名作たらしめているのは彼の存在感でした。

原作小説でも映画でも、ゲンジさんの存在は、マイの生活に混乱と憎しみをもたらしていました。
そして、読者の気持ちにも。
なぜあんな無礼で不快な存在に出入りさせるのだ!なぜあんな男にこの美しい作品を汚させるのだ!当時の僕はゲンジさんに不快感を抱き、彼が登場するだけで嫌な気持ちになっていました。

きっと、おばあちゃんとマイの二人だけだったら、静かで、完璧で、濁りない小さな世界が完成していたに違いないでしょう。

でも、思うのです。そんな純粋培養な美しい世界に、人を納得させるだけの力があるでしょうか。
そんな世界は美しくはあっても、ひどくか弱い印象を抱くような気がするのです。出来すぎで、非現実的で、「そりゃぁ、こんな環境があれば理想郷ですよね」と皮肉を言いたくなるような。

実は彼の存在は、この作品にとってすごく重要だったのです。
世の中は決して綺麗なものばかりではありません。もっと厄介で、不愉快で、どこかで折り合いをつけなきゃ行けない時もあります。
そして人間は、一見しただけではわからない、深い付き合いにならないと分からない一面を持っていたりする者です。

ゲンジさんは、そんな現実の複雑さを体現する存在です。ゲンジさんという「濁り」を抱えているからこそ、この作品が現実にも通用するような厚みを持つことが出来たのです。

魔女修行

僕が十数年ぶりに映画としてこの作品に触れ、小説と一番違いを感じたのはこの点です。(ここを語りたかったからこの記事を書いたようなものです笑)
とは言っても、小説と映画で描き方が違ったというわけではありません。恥ずかしながら、、僕は小説を読んだ時点では「なんのための魔女修行だったのか」をちゃんと理解できていなかったのです…

お恥ずかしい話ですが、もともとファンタジー小説を期待して手に取っただけあって、高校生の頃は読んでいる間「いつになったら魔法使うのかな?それともあれは嘘なのかな?」とずっと考えていました(^^;

おばあちゃんの「規則正しい生活をすることこそが魔女修行なんです。魔法を使うには強い心を持たなければいけません」という教えの裏の本音とは何だったのか。3児の父となった今となっては、痛い程よくわかります…。

正直な話、すっごく重要なここのくだり、小説を読んだときの記憶からほとんど抜け落ちています(笑)高校生の僕には、このシーンの重要性が理解できていなかったのでしょう。(「うまいこと言って魔法教えないつもりだな!」とか思ってた)

むしろ、なんでこんな大切なことを見落としていたのか!?と高校生の自分に失望したくなるほどですが…
それについて妻がこんなコメントをしてくれました

「それって、視点の違いじゃないかな」

「視点?」

「たぶん高校生の時は、マイに感情移入しながら、子供の視点で物語を読んでたんじゃないかな」

「あ、うん。たしかにマイの視点で読んでた。不登校のくだりは苦しかったし、ゲンジさんのことマジで嫌だった」

「でも今回映画を観る時は、おばあちゃんや親の視点だったんじゃない?」

「…ホントだ!おばあちゃんの気持ちで映画観てた!」

「それってさ、守り育てられる子供側から、人知れず試行錯誤して子供を育てる側に気持ちが移ったってことじゃないかなぁ。」

そうなのです。
15歳の高校生と、34歳の父親じゃ、誰に感情移入するかが全く異なっていたんですね。

高校生の僕はマイと同じ目線で、「魔女修行って本当なのかな…?」とおばあちゃんと接していました。
一方、34歳の僕はマイの挫折に心を痛め、どうにかして立ち直らせてあげたい母親、そしておばあちゃんと目線を共有していたのです。

当時は“規則正しい生活をすること・強い心を持つこと”のもつ意味なんて、全然気づいていなかったですね…。
あの時気づけなかった意味を、十数年越しにようやく理解できました(笑)

ラストに感じた感動と不安

この作品のラストの「オバアチャンノタマシイ ダッシュツダイセイコウ」は、よく覚えていました。
ところがなぜか、前半の「ニシノマジョカラ ヒガシノマジョヘ」は記憶からすっぽり抜けていました…
だから映画を観て、改めて驚き、清らかな感動を得ることが出来ました(^^;

いいですよね、ヒガシノマジョって。
おばあちゃんが、“魔女修行”におけるマイの成長を認めてくれ、もう大丈夫だよと背中を押してくれることを端的に示した、暖かいワンフレーズです。

ただ、高校生の僕はどちらかというと、「ああ、おばあちゃんって死んじゃうんだ…」と当たり前の事実に打ちのめされたのを覚えています。

人は、いつか死ぬ。
どれだけ好きでも、そうなったらもう伝えることはできないのです。とりかえしがつかない。
だから、この結末はハッピーエンドなんだろうかと少し複雑な気持ちでした。

でも、あの時はわからなかったけど、大人になった今ではこれがハッピーエンドなんだと分かります。マイが、あるいは高校生の自分がいたら、(きっと理解してもらえないけど)こう言ってあげると思います。

「それでもいいんだよ。おばあちゃんはあなたを愛していたし、愛されていることも知っていた。幸せだったんだよ」

ああ、大人になるってこういうことなのかなぁ。
ひさしぶりに同じ作品を鑑賞して、そんなことを思いました。

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