名優アルパチーノの深みのある演技を楽しめるものの、解釈が別れる難解なシーンも多い一本でした。
一体あのシーンはどういう意味だったのか。これはどんな物語だったのか。一つ一つ考察していきたいと思います。
スイカのシーンの意味
マングルホーンが猫を抱きながら公園を散歩していると、凄惨な交通事故にでくわすシーンがありました。周囲には色鮮やかなスイカが散乱しており、サイケデリックで印象的な場面でしたね。
なぜこのシーンが挿入されたのでしょうか。一体なにを象徴していたのでしょう。
1.マングルホーンの精神が壊れかけていることを示している?
主人公のマングルホーンさんは一見まっとうな社会人として生活しているよに見えますが、届きもしない手紙を延々書き続けているような歪つな内面も抱えています。
実は彼の心はとっくに崩壊していることを、事故で象徴したのかもしれません。
この映画のタイトルもブロークン(broken:壊れた)ですしね。
2.彼の“現実との隔離”を示している
非常に凄惨な事故であるはずなのに、どこか現実感がないというか、色鮮やかでスローモーションで、まるで絵画を鑑賞しているような違和感を受けました。
そしてその場での主人公の振るまいも同様です。大変な事故に遭遇したわりには、単に驚くだけでその場を通り過ぎていきます。
これは主人公が今生きている人生に現実感を持てず、まるで薄皮一枚隔てて別の世界を観るように、ニセモノの人生のように過ごしていることを示唆しているのではないでしょうか。
彼はクララのいない現実から逃避し、クララがいる人生こそが自分の本来あるべき世界だと思っています。今まさに過ごしている人生を、どこかまがい物のように考えている…そんな彼の心境を表しているのではないでしょうか。
トイレで写真を見つけたシーン
マングルホーンが銀行の窓口係のドーンさんの家に招かれたときのこと、トイレの中に飾ってある彼女の写真を見て、明らかに動揺していました。
その後のシーンでは、ドーンさんの好意を前にしてやたらとクララを称え、彼女を傷つけます。
なぜあの写真が引き金を引いたのでしょうか。
1.クララに似ていた
マングルホーンも言っていましたが、ドーンさんの格好はクララに似ているそうです。また、彼女が写った白黒写真も、どことなくマングルホーンが大事にしているクララの白黒写真を連想させるものがあります。
あの写真を見たことで、クララのことが頭をよぎり、とたんに自分が浮気をしているような罪悪感に囚われたのではないでしょうか。
2.誰が撮った写真?
ドーンさんの写真は、ベッドの上でくつろいでいるようなすごくリラックスしたものでした。一体誰がこんな写真を撮ったのか?普通に考えたら彼女の元・恋人でしょう。
彼女には、こんな写真を撮らせる男性がいた…そんな事実は自称・クララだけを愛し続けている男マングルホーンには、なんだか不愉快なものだったのかもしれません。
できれば自分だけを愛し続ける存在であってほしいのに、そうでないことを目の当たりにして、テンションが下がってしまった…。極めて自分勝手な話ではありますが、ま、彼でなくても昔の男の痕跡というのはいい気持ちがしないもんです。平たく言えば“嫉妬”です。
だからこそ次のシーンでドーンに対して「誰か側にいるのを求めるのか」と急に嫌みじみた言い方をしたのでしょう。まるで「男なら誰でもいいんだろ」という拗ねたセリフのように聞こえました。
ちなみに、前者の「罪の意識に囚われたから」という意見は嫁から、後者の「昔の男の痕跡に嫉妬したから」という意見は僕からでてたりします。このへん、男女の考え方の違いなのでしょうか、それとも単に個人の性格なのでしょうか…(笑)
なぜマッサージ店で怒りだしたか
マングルホーンは自分から怪しげな“マッサージ”のお店にいっておきながら、いざサービスが提供されそうになると「俺をバカにするな」と理不尽に暴れ出しました。
実は本当にあの店をただのマッサージだと勘違いしていた…とはちょっと考えにくいでしょう。
なにしろあれだけ心の声で自己弁護をしていたのですから、どんな店かわかった上で行きたい気持ちはあったはずです。
あのシーンは、ドーンさんに振られ、助けを求める息子を追い払ってしまった直後でした。おそらく、さすがの彼もなにがしかの“癒し”を求める気持ちがあったのでしょう。
しかし、男性によくある心境なのですが、「ああいう店にいきたい」という気持ちと同時に「ああいう店に行くのは恥ずかしい」というプライドがあったりします。
特にマングルホーンは、泣き出したドーンさんを前に「他の人が見てるからやめてくれ」と言ってしまうような、外面をとても気にするタイプでした。
また「俺は緊張をほぐしたいだけなのだ。自分は知らずにマッサージにしにきただけで、その結果怪しげなサービスまでされてしまったのだ…」と心の中で言い訳しているあたり、欲求とプライドの間で揺れていたことがわかります。
しかし、「あなたのことはギャレーから聞いているわ。サービスしてあげてくれって。」と店の女性に言われてしまったことが、彼の感情を逆立てました。
(心の中で)必死に言い訳をしていたものの、ギャレーには「彼が風俗店を利用しにきた」とすっかり見抜かれていたのです。
そして恥ずかしさとプライドを傷つけられた怒りから、「自分はそんなつもりじゃなかったんだ!!!」と逆上してしまったのです。
う~ん、ひどい奴です(笑)
なぜ急にクララの思い出と決別できたのか
彼が「クララ部屋」の写真や手紙を全て捨てるシーンは、転機の象徴でした。
それにしても、説得力がないというか、なんでまた急に(笑)
色々あって
ドーンさんにはフられてしまうし、いい加減手紙返ってこないし、助けを求める息子を邪険にしてしまうし、ギャレーの店に行ってしまい恥ずかしい思いをするし…
うちの嫁いわく「色々あって、うわぁぁぁぁ~!ってなったんじゃない?」とのこと。なんて身も蓋もない説(笑)
ただ、これがけっこう正解に近いと思います。
ひとつのきっかけで変わったのではなく、いくつかのエピソードが積み重なってマングルホーンの心に影響を与えていった…。この映画って、そんなお話のように思えます。
それこそ、銀行の窓口で歌を歌いだしたおっちゃんとか。あんなエピソードの積み重ねが、意外と人の心を動かすと思うんです。
猫のファニー
「鍵をおなかの中に飲み込んで、それで体調を崩し死にいたるところだった」ってのは、なかなか露骨な比喩ですね(笑)
マングルホーンが猫の中から取りだした鍵を洗ってじっとみつめ、その直後にクララ部屋をキレイにしだした点を考えても、彼自身思うところがあったのでしょう。
「猫が元気にエサを食べだしたのをみて神に感謝したくなった、この世界を信じてみたくなった」という意見もあります。
動物には心を開くマングルホーンさんらしさが出ています。
息子
個人的には、息子とのエピソードが一番気になりました。
窮地に陥り、父親を頼りにしてきた息子を、彼は冷たくあしらってしまいます。
ところが息子は、明らかにがっかりした様子をみせながらも、父親の頭にキスをして去っていきます。
なんだか、不思議でした。
あれだけうまくいってない親子で、ひどい父親なのに、息子は父親を愛しているんだなって。
そして、顔を赤くして動揺するマングルホーンも気になりました。
冷たくしながらも、本心では彼も息子を愛しているんじゃないかと。息子からの必死の助けを邪険に扱ってしまったことが、彼に何かを考え直すきっかけになったのではないでしょうか。
僕自身が息子を育てる父親だから、よけいにそう思うのかもしれません。
ただ、ドーンさんを傷つけた後でも余裕のあったマングルホーンが、この時ばかりは一点を見つめ、全く余裕を失っていた。そのことが気になるのです。
ラストシーンのパントマイムについて
鍵屋が車の中に鍵を置き忘れて閉め出されてしまうという構図はなかなかに愉快です(笑)
そして大道芸人からパントマイムで投げられた鍵を使うとなぜか開いてしまう。全く現実的ではないものの、アルパチーノのビックリ顔と相まって、面白いシーンではありました。一度やってみたいです。
それにしても、どうにも露骨な表現です。
「鍵を失い自分ではもう開けられないと思いこんでいた扉が、他の誰かにもらった目に見えない鍵で、あっさり開いてしまう」
うーん、この監督はよっぽど意味ありげな比喩が好きなんでしょうね(笑)
なお、このシーンについては監督がインタビューでこんなことを言っています。
Q:パントマイムが登場するラスト・シーンには、メタファーとしてミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(66)からの引用があると考えていいですか?監督: 『欲望』を観ていない人はいないんじゃないかな。この映画を創りながら僕たちは、何か「希望」を示すヒントになるようなものをずっと探していた。世界に残せるようなこの映画の署名のようなもの、人は生き続けることができる、前に進むことができるんだということを示す印を残したかったんだ。そんな時、とても才能のある男で、僕の子供のベビーシッターもやってくれている友人からインスピレーションを得た。「パントマイムが出来るかい?」と聞いたら「出来る」というので、やってもらうことにしたんだ。
とにかく、この映画を創るにあたってさまざまなことを検討した。彼の職業とか、彼の世界観、彼が心の中で人生の喜びや神秘、奇跡を受け入れるようになることなど。長いディスカッションの中では、パントマイムの入れ方に関して、確かに『欲望』の話題も上がったと思う。ただ、『欲望』をもう一度観たのはポスト・プロダクションの時で、このエンディングもその頃に決めたんだ。ただ、引用や暗喩に関しては、『スケアクロウ』(※アルパチーノの70年代の代表作)はじめ、さまざまな映画からインスピレーションを得ている。結果的にはうまく行ったと思っているよ。
なお、映画『欲望』のあらすじ・解説についてはこちらのサイトに詳しいです(注意:結末までの詳細なネタバレを含んでいます)
また、このインタビューから、監督の意図として“彼が心の中で人生の喜びや神秘、奇跡を受け入れるようになること”を映画の根幹においていたことがわかりますね。終盤の展開の意味はこの辺に理由がありそうです。
邦題について
この映画のタイトル『ブロークン 過去に囚われた男』ですが、実は英語の原題は全然違います。
本来のタイトルは『Manglehorn』。
さすがにこれだとどんな映画か全くわかりませんし、観たいという気持ちも起こりにくい。邦題を変えたのも納得です。
…ただ個人的には、この邦題に少し違和感を感じています。
「ブロークン(壊れている)」という表現がどうもしっくり来ません。いささか重たく、悲劇的なニュアンスを感じないのです。
たしかにマングルホーンは過去に執着し、異常な行動をする男性でした。自己中心的で、不機嫌で、ひねくれもので、臆病で、最低な人間ではありました。
でも、どこか憎みきれない不器用さと愛情を備えた人物だったようにも思えるのです。
「修道女とボートのエピソード」から感じられるように、彼は厭世的で、世界に失望と諦めを抱いていました。そして、自分自身にも。
でも、ギャレーのクラブを訪れてみたり、息子に会いに行ったり、彼は根っからの孤高の人間ではなかったと思えます。息子に「自分自身しか頼れる存在はいない」と言いはなったりするのも、どこか寂しさの裏返しのような気もします。
孫娘はもちろん、息子も、ギャレーも、そしてドーンさんも、(なぜか)マングルホーンのことを愛していました。とってもわかりにくいけど、きっと彼も愛されるに値する人間だったんです。
ただ本人だけが、そのことに気づいていなかっただけで。
僕がタイトルを付けるなら『気難しいマングルホーン氏』でしょうか。こんなタイトルであれば、観客の印象も少し違ってきたのかもしれません。
まぁ…、やっぱり興行収入はふるわないでしょうし、若干、彼に甘すぎるような気もしますが(笑)