この映画がなぜこれほど評価されているか。
ひとつはあの時代のアメリカにあった「不信感」を反映したこと、もうひとつは「アンチヒーローによる説得力」です。
原作との違いを交えて、解説したいと思います。
1960年代の時代背景
『真夜中のカーボーイ』は1969年のアカデミー賞で、最高賞である作品賞を受賞しました。
1960年代のアメリカを一言でいえば、「不信感」の時代でした。
いったい何に不信感を抱いていたのか?
それには大きな二つの要因が関係しています。「赤狩り」と「ベトナム戦争」です。
赤狩り
当時、世界ではソ連・共産主義国が急速に台頭していました。
このままでは自由の国アメリカも共産主義国に飲み込まれてしまう…。そんな恐怖心から、アメリカ全土で共産主義者へのヒステリックな弾圧が行われたのです。それが『赤狩り』です。
「赤狩り」は、まるで理性的とは思えない現代の「魔女狩り」でした。
証拠があろうと無かろうと、共産主義者だと名前を挙げられた人間は社会的に抹殺されてしまいます。
ハリウッドでも、共産主義者とされた人物を業界から追放する事件が起きています。
彼らはソ連のスパイであったわけでもありませんし、反社会的な行動をとったわけでもありません。
ただ個人の思想として共産主義に憧れていただけなのです。(もしかしたら、共産主義者ですらなかったかもしれません)
それなのに、アメリカ社会は嬉々として彼らの職を奪い、社会的に抹殺し、時には牢獄に押し込みすらしたのです。
しかししばらく後、「赤狩り」のヒステリーから正気に返ったアメリカ国民たちは、いかに自分たちが非道な行いをしていたかに気づき、愕然としました。
ここは「自由の国・アメリカ」ではなかったのか?
思想の自由、言論の自由はどこへ行った?
狂気に突き動かされたようなこのざまはなんだ。
我々は冷静で理性的な存在ではなかったのか?
アメリカ国民が、自分たちが信じていた「正義」の欺瞞に気づいてしまったのです。
…国中が自己嫌悪に陥っていたようなものでしょう。
ベトナム戦争
また、当時はベトナム戦争のまっただ中でした。
最初は政府が広報する内容通り、「共産主義にたいする正義の戦争」と信じられていたのかもしれません。
しかしベトナム戦争は、史上初めて戦場にメディアが帯同した戦争でした。
リアリティ溢れる戦争の映像がお茶の間に流れ、アメリカ国民はショックを受けます。
次第に戦争の悲惨さ、双方の犠牲が国民に知られていきます。
さらにベトナム軍の抵抗で、戦争は長期化してしまいます。
「なぜ地球の反対側の戦争のために、私たちの息子が命を落とすの?」
「本当に社会主義者を殺す必要があるの?」
「いったい政府はなにをしたいの?」
ただでさえ「正義」の感じられないこの戦争に、国民の中に厭戦感情が漂い始めました。
政府への不信、正義への疑問がおおっぴらに語られ始めたのです。
「赤狩り」と「ベトナム戦争」、ふたつの事件がアメリカ国民の自信を奪い、社会の人々や政府に対する不信感を芽生えさせました。
もともとアメリカ国民は国に対する誇りが強かったのですが、その自信ががらがらと崩れていったのです。
信じていたからこそ、余計に反動が大きかったのかもしれません。
アメリカンニューシネマ
そんな時代の空気の中、1960年代から1970年代に「アメリカンニューシネマ」という映画群が人気を集めます。
これらの作品は社会への不信感を強く反映し、
「社会の不条理を描き出す」
「重く深いテーマ性」
「アンチハッピーエンド」
「アンチヒーロー」
これらの特徴を持っていました。
※主な作品に『俺たちに明日はない』、『イージー・ライダー』、『ダーティーハリー』、『タクシードライバー』など。
この『真夜中のカーボーイ』も、まさにアメリカンニューシネマの代表作として挙げられます。
『真夜中のカーボーイ』で描かれていた世界を思い出してください。
あるいは、上流階級がいい暮らしをしている一方で、その高層ビルの下ではホームレスが凍えている…。そんな異常さを気にもしない世界。
あるいは、男娼、同性愛、サイケデリックで享楽的なパーティーといった非道徳的で退廃的な浪費。
最初から最後まで「お金」が話題であったのも印象的です。食べ物を買うお金、薬を買うお金、バスのお金、一夜の関係を買うお金…。
あるいはこれが資本主義社会の成れの果て、と言いたかったのかもしれません。
もっとも、自由な生活を夢見たジョンも、結局ラストシーンでは「普通に働く」という選択肢を選ぼうとしていました。
このあたりのさじ加減は絶妙ですね。
現代資本主義社会の矛盾を批判し、理想に生きようとしても、結局は食べていかねばならないという哀しい現実をうまく表現していたように思います。
主人公や観客は、こんな世界に何を感じたでしょうか。
憤慨、無力感、そして絶望。
こういった負の感情こそ当時のアメリカに漂っていた空気そのものなのです。
社会の暗部を鋭く描いたからこそ、当時のアメリカ国民のの共感を呼んだのです。
当時のアメリカだからこそこの映画はヒットした。それは間違いありません。
しかし、この映画の価値は時代や世界を超えた普遍性があります。
もちろん現代の日本には、当時のアメリカほど不信感が渦巻いているわけではありません。
経済格差が叫ばれていますが、ほとんどの人には“圧倒的な理不尽”というほどではないでしょう。
しかしこの映画は刺さらないかというと、そうでもありません。
理不尽な社会への憤り、変えられない無力感、そんな気持ちはいつだってどこだって存在するのです。(残念ながら。)
アンチヒーローだからこそ輝く素晴らしさ
そして同時に、アメリカンニューシネマの特徴のひとつでもある「アンチヒーロー」が重要な役割を果たしています。
汚れや歪みに目をそらさずに描ききったからこそ、美しいものへの説得力があったのです。
ジョーとリコ、二人は決して理想的な主人公ではありません。
汚くて、愚かで、犯罪を犯していて、終盤にリコはとうとう失禁までしてしまいます。
しかしこれが重要なポイントでもあるのです。
主人公になぜあんな情けない描写を加えたのかを考えてみましょう。
監督は、とにかく二人を底辺として描きたかったのです。
映画の主人公は、基本的にはヒーローです。
正義の心を持ち、機転を利かせ、決して失禁などしないものです。
この映画は明確に従来のヒーロー像の逆を行く、「アンチ・ヒーロー」でした。
なぜこんな描き方をしたのでしょう。
ただ従来のヒーロー像を覆したかったわけではありません。
従来のヒーロー像はかっこいい反面、理想化されすぎて現実感に乏しいというジレンマがありました。
「こんな綺麗な心で正義を貫くなんて、現実的じゃないなあ。」
「恵まれた男だからハッピーエンドになるんだ。実際はそうはいかない」
「結局映画は夢物語さ」
ただでさえ世間は「不信感」の時代。
非現実的なほどかっこいい男を描いても、信じてはもらえません。
だからこそ、自分達よりも素晴らしいとは思えない底辺な男を主人公にする必要があったのです。
だって、もしも底辺な二人の中にすら、美しく輝くものがあったら、「自分たちにだってそんな素晴らしさがあるかもしれない」と信じないわけにはいかないでしょう?
ジョーとリコにあったもの、それは美しい絆でした。
損得や過ごした年月に関係なく、ジョーは体を売ってまでリコを助けようとしました。
リコは悪態をつき拒絶しながらも、ジョーに心を許していました。
いかに二人が愚かであろうと、この友情の美しさは誰にも否定できません。
考えてみれば皮肉な対比です。
一方で高級感に溢れながら無機質で無慈悲な資本主義社会を描き、
一方で糞と泥にまみれた二人の間に素晴らしく人間らしい温かみを描いたのです。
※ちなみにこの二人の関係を同性愛の暗喩だとする説も根強く、ジョー・シュレンジャー監督も後に自身がゲイであるとカミングアウトしています。
ですが私には、この映画は恋愛感情というより友情と考えた方がしっくりきます。
原作と映画の違いから見えてくる、監督の意図
実はこの映画には原作小説があるのですが、映画化された部分は小説の後半部分だけだったりします。
前半は主人公ジョーの切ない半生が語られます。両親に捨てられ、恋人と引き裂かれ、最愛の祖母とも死別。
映画では断片的にしか語られなかった部分ですね。
決して前半部分が優れていなかったわけでなく、むしろ前半こそ素晴らしいという人もいます。
しかし、映画ではバッサリとカットされました。
素晴らしいエピソードのいくつかをカットしてでも、都会に出てきてからの描写に照準を絞ったのです。
これこそ、監督が描きたかったモノを示す証拠ではないでしょうか。
監督が描きたかったのは、ジョーの切なさや悲恋のドラマではありません。
この資本主義社会の歪みであり、そんな腐った世界の中でも美しく輝く”人間愛への賛歌”だったのです。