サタデーナイトフィーバーはタイトルを誤解してる?/どこが名作なのか解説するよ

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saturdaynightfever
嫁と一緒に往来の名作『サタデーナイトフィーバー』を鑑賞しました。
僕は非常にいい映画だ!と思ったのですが、どうも嫁にはぴんとこなかった様子。
なぜあの映画が名作と呼ばれるのか?少し解説してみたいと思います。

この映画を一言で言えば「青春映画」です。
「主人公が19歳の少年だし、友達との関係や気になる女の子との関係がメインで描かれているし、そりゃそうだろ!」と思われるかもしれません。
いや、そうではないのです!ただ10代が舞台という理由だけでは、「一流の青春映画」にはなりえないのです!

では、いったい何が、この映画を一流の青春映画としているのでしょうか。

青春映画とは

青春を語る上で、もちろん10代という若さゆえの輝きは欠かせません。
エネルギーに満ちあふれ、すべてが初めての経験で、どんな可能性も秘めていて…。
僕ら大人から見ると、青春時代は、とにかく美しいのです。成功も、失敗も、全部含めて、懐かしく輝いているのです。

そして同時に「青春時代」という響きには、「まだ大人になれていない」というニュアンスも込められています。
経験が足りなくて、世界の広さを、世間の厳しさを知らなくて、人との接し方も荒削りで、衝動的で。
言ってしまえば、「青春時代」とは「未熟であること」と同義なのかもしれません。

映画の話に戻りますが、この映画の主人公はまさに「未熟」でした。

物語の途中では「女にモテて、ダンスホールではブイブイ言わせて、まさにダンスキング!(≧▽≦)」と持ち上げられていましたが、終盤では急転直下、いかに自分が小さな存在であるかを痛感させられています。

「ダンスキング」の自負も、プエルトリコ人のダンサーの実力を目の当たりにして、ぽっきりと折られています。
コンテストのパートナーである美しい年上の女性も、彼に気があったわけではなく、利用しようと期待させる言動をしていただけでした。
彼を慕っていたアネッサも不幸にしてしまいました。
相談を持ちかけていた友人の苦悩にも気づけず、不幸な事故を招いてしまいました。
うーん、ここまで追い詰めなくても。

井の中の蛙であった自分。たいした人間でもなかった自分。
今まで周囲から“キング”と持ち上げられていた彼だけに、さぞ打ちのめされたことでしょう。

しかし大人たちが「青春時代」を微笑ましい目で見ているのは、ただ「未熟である」ことを可愛らしく思っているためではありません。それが大人の階段を上るための、重要なステップであることを知っているからです

主人公は、一晩中町を歩き回り、「ブルックリン(治安の悪い低所得者の街)をでて、マンハッタン(都会)に住む」との覚悟を決めます。
決して簡単なことではないでしょう、しかし彼は、あえて未知の世界に身を投じます。

そこに感じるのは、「このままじゃないけない」「変わらなきゃいけない」という強い焦燥感と、決意です。彼は子供であった自分に気づき、ついに一歩を踏み出したのです。(それでもヒロインに「友達になってほしい」と言ってる辺り、彼も一抹の不安を抱えている様子が垣間見えてかわいらしいですがw)

そう、この“悩み抜いた一歩”こそが、この映画を一流の青春映画たらしめているのです。

青春時代のこの“一歩”がどれほど重要であるかを、大人たちは身をもって知っています。
まだ大人になりきれていなかったことを痛烈に自覚してしまい、それでも必死でもがくしかなかった昔の自分。それが結果的に今の自分に繋がっていると、そう知っているからこそ、観客はラストシーンの彼を温かく見守るのです。

ラストに繋がるいくつかのシーン

思い返してみればいくつかのシーンが、彼の心境の変化を強調していたように思えます。
ひとつずつ見てみましょう。

「俺はプロだから」

コンテストのパートナーを選ぶに当たって、アネッサに「プロなんだから」と言い訳していました。この「自分はプロである」という台詞には彼の自負の高さがうかがえます。
逆に考えれば、後にプエルトリコ人のダンサーに天狗の鼻をへし折られるシーンへの伏線ともいえますね。

将来の予感

ペンキ屋の主人にクビを撤回され「こいつは15年、こいつは18年も勤めている!」と笑いながら言われたシーンでは、主人公は何ともいえない戸惑いの表情を見せていました。

友人が橋から落ちて死んでしまった時も、彼の車で帰ろうとする仲間たちを見てやりきれない思いを隠せていませんでした。

これらのシーンはそれぞれ、彼が自分の行く末に気づいてしまった瞬間ではないでしょうか。

「15年後、俺はこのままペンキ屋の店員なのか…?」
「そしていつかは死んで、仲間たちもそれを“仕方ない”って顔して去っていくのか…?」

彼はあの瞬間、このままだとどうなってしまうか、初めてリアルに自分の将来を見つめてしまい、そしてそれに打ちのめされてしまったのではないでしょうか。

神父をやめた兄

神父を辞めてしまった主人公のお兄さんの存在は、ある意味主人公の対となる存在です。

神父という、経済的にも安定し、周囲にも賞賛される仕事についていたのに、お兄さんはそれを放棄してしまいました。
でも彼は馬鹿でもないし、怠惰だったわけでもありません。
親の期待していたとおりに神父になり、その時初めて「これは自分のやりたい仕事じゃない、自分の人生はこれじゃない」と気づいたのです。

これって、土曜の夜にダンスホールで皆の賞賛を集める主人公にも同じことがいえます。
もちろん彼はダンスが大好きだし、これが「やりたいこと」と言ってもいいでしょう。しかし「たしかに皆から賞賛されているが、このまま自分の人生を終わらせていいのか」という問いに対して、たぶん主人公は胸を張って答えられません。

兄「おまえはこれを仕事にするのか?」
主人公「よく聞かれるけど…」

お兄さんは次にやることをまだ見つけていませんが、決して弱気になることなく、新しい人生に身を投じていきました。その堂々とした兄の後ろ姿は、きっと弟に小さくない影響を与えています。

「サタデーナイトフィーバー」というタイトルへの誤解

またこの映画のタイトルに対する誤解が、この映画への理解の妨げにもなっていることを説明したいと思います。
この映画の原題はそのまんま「Saturday night fever」。日本語と同じだから理解出来ていると思うかもしれませんが、ここに非常に気付きにくい落とし穴があったのです。
実は、英語の「Saturday night fever」と日本語の「サタデーナイトフィーバー」では、含まれるニュアンスが微妙に異なるんです。

そもそも「フィーバー」という単語は、この映画の大ヒットの影響で日本に定着しました。(ちょっと古くはありますが、「大フィーバー」だとか「フィーバーする」という表現、わかりますよね。)

しかし、英語でfeverといえば、基本的に「病気による発熱」や「熱病」を意味します。日本語のような「盛り上がる」という意味もあるにはあるのですが、若干雰囲気が異なり、「病的に夢中になる」というネガティブなニュアンスで使われることが多いようです。

つまり、原題の「Saturday night fever」に含まれる印象は、“土曜の夜に楽しく盛り上がる”という明るいニュアンスではなく、“現実を忘れ、土曜日の夜にだけ、病的に夢中になっている状態”というネガティブなものなんです。
現在であれば週末の大騒ぎばかりにうつつを抜かしているパリピ(=party people)に対し、「あいつらはSaturday night feverだなw」と侮蔑をこめて使うようなもんでしょうか(笑)

つまり、原題のニュアンスを正しく理解していれば、「主人公が土曜の夜ばかりに夢中になっていて、現実に立ち向かっていない、望ましくない状態である」という描かれ方をしていることがすんなり理解出来るんですね。
日本の「サタデーナイトフィーバー」というタイトルでは気づきにくいのですが、まず映画の始まりからして、停滞した日常からの脱出が前提にあったわけです。

この辺を頭に入れた上で、出来ればもう一度最初から映画を観てみてください。この映画が名作と言われる理由が、腑に落ちると思います。

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