「遺書」の発見以降のシーンがわかりにくいので解説していきます。
目次
- あの遺書はどんな意味だったのか?
- 松坂桃李の「ごめん」の意味とは?
- なぜ内調のボスは外務省への異動を打診してきたか?
- モデルとなった事件・人物とは?
- この映画で何を訴えたかったか?
あの遺書はどんな意味だったのか?
遺書に書かれてあったのは
「大学新設に伴って首相の古くからの友人に多額の金が流れている」
「それは国民の大切な税金だ」
「自分はそれに判を押してしまった」
「二度もこんなことをする自分に耐えられない」
という内容でした。
重要なことは、主人公達の考えていた疑惑「新大学は生物兵器をつくれる」「軍事転用を考えられている」が、一切書かれていない点です。
松坂桃李は手紙を読んだ時点で
元上司・神崎さんは、「軍事転用云々」のために自殺に追い込まれたのではなく、
「収賄に荷担した」罪悪感に押しつぶされて死を選んでいたと知りました。
もっと端的に言うならば、
松坂桃李が遺書を読んだシーンは、
自分達のだした会心の一面記事が、とんでもない「誤報」だと気づいてしまった瞬間とも言えます。
松坂桃李の「ごめん」の意味とは?
誤報だと気づいた松坂桃李は血の気が引きます。
既に新聞社の人たちの前で「いざとなったら自分の実名を出してもいい」と約束してしまった後です。
もちろん、当初は社会正義のため、自らのキャリアを棒に振ってもいい覚悟でした。
しかしそれは、「『大学の軍事転用』という邪悪な行為を許しておけない!」という熱い気持ちに支えられてのもの。
その根底には「神崎さんは大学の軍事転用を許せず、自責の念で死に追い込まれた」という意識もあったでしょう。
いざそれが自分達の思いこみ、早とちりだと気づいたときに、
果たして当初の「自分の実名を出してもいい」という覚悟を貫けるでしょうか?
言うまでもありませんが、子供が産まれたばかりで、今後の生活に経済的な不安を感じる時期です。
いくら約束したとはいえ、キャリアを犠牲にしてまで、勘違い記事に実名を出す必要はあるのか…
悩む気持ちは十分に分かります。
「ごめん…
やっぱり実名を出すのはやめてほしい」
これが松坂桃李の答えだったのでしょう。
なぜ内調のボスは外務省への異動を打診してきたか?
さて、記事が誤報なのだとしたら、
なぜ内調(内閣情報調査室)のボスは「すべてを忘れる」という条件で外務省への異動を打診してきたのでしょう?
松坂桃李は、以前から外務省へ戻ることを希望していました。
その彼に外務省への異動を口利きするということは、
「これ以上しゃべるな」という「口止め料」の意味があると思われます。
「誤報なのに、口止め料?」と思うかもしれません。
もしも相手がただの勘違いなら、訂正して笑いものにすれば済む話だからです。
しかし、ここがこの映画の肝です。
神崎さんの遺書を思い出してみましょう。
軍事転用の記事自体は誤報であるかもしれませんが、
少なくとも「首相の古くからの友人に多額の金が流れている」という部分は事実なのです。
新聞社の上司は「いいニュースだ。読売、朝日、毎日、大手各紙もこの記事に追随している」とも発言していましたね。
たとえ軍事転用の事実が無かったとしても、別のやましい所があったのです。
新設大学問題について深く追求されると、収賄問題に辿り着いてしまう可能性があるのです。
それはそれでまずい。
後ろ暗い部分のある内閣側としては、
たとえ軍事転用自体が誤報であったとしても、新設大学に関する盛り上がりは終息してほしいのが本音なのです。
モデルとなった事件・人物とは?
この映画の原作者・望月衣塑子さんは東京新聞の記者です。
女性ジャーナリストがTBS記者に暴行されたのに不起訴になった件や、
森友学園・加計学園問題について政府を厳しく追及したりしており、
そのまま映画の主人公=原作者の自己投影と考えていいでしょう。
彼女はある事件で一躍有名人となりました。
ある内閣官房長官の記者会見の場でした。
通例は一人2~3問しか質問しない中、彼女は加計学園問題に対して一人で23問も質問・追求をしたのです。
最終的には菅官房長官から苦言を呈され質問を打ち切られました。
さらにその後、内閣側は彼女が所属する東京新聞に
「未確定な事実や単なる憶測で質問をしており、国民に誤解を招く」
と文書で抗議を送るという、
過去にない異例の処置に出ました。
「質問の打ち切り」「本社への圧力」など、この映画で表現されていた「上からの圧力」に通ずるものがありますね。
内閣の真意はともかく、彼女はそう感じたでしょう。
彼女に対する賛否は別れており、
都合が悪い質問をされると制裁するなんて、独裁政権のようだ
そもそも内閣に都合のいい記事ばかり書く日本独特の「記者クラブ」はジャーナリストの腐敗だ
会見での鋭い質問は海外では普通。
彼女の勇気は素晴らしい
と賞賛する声もあります。
一方で
週刊誌レベルの噂を事実と勘違いして質問をしている。
感情的に、同じ趣旨の質問を何度も執拗に繰り返している。
事実確認の「質問」でなく、自己主張の場になっている。
公開されている会議を「秘密会談」と表現したり、「内閣=悪」との印象操作を多用する。
との批判もあります。
この映画で何を訴えたかったか?
さて、以上をまとめると…
この二つを踏まえると、
原作者がこの物語で訴えたかったメッセージが見えてきます。
原作者は、こう言いたかったのでしょう
私は確かに事実誤認をしてしまったこともある。
私が追及した疑惑は、100%真実ではなかったかもしれない。
しかし、私が追求したことで、世間の厳しい眼が内閣に向き、
結果的に、内閣の後ろ暗い部分を探り当てることになったのだ。
たしかに、今の日本には『政権に忖度しない鋭い報道姿勢』は欠けているのかもしれません。
しかし個人的には、この考えにはあまり賛同できません。
「たしかに私は誤報を出したが、やはり内閣は悪である」
「きっと犯罪者だから有罪と報道しておこう」
という開き直りや決めつけに思えるからです。
もちろん、新聞記者として、内閣の悪い部分をたくさん知っていたのかもしれません。
しかし、映画の中における『内閣=悪』の図式は根拠もなく、余りに過剰でした。
「内閣情報調査室はtwitterでデマを拡散している!」
「週刊誌や新聞を使って批判記事や制裁記事を書かせている!」
本当にそんな事実があるんでしょうか?
映画に脚色は付き物ですが、やりすぎな気がします。
実際に週刊誌やtwitterで批判されたらそう思いたくなる気持ちもわかりますが、いくらなんでも陰謀論過ぎやしないでしょうか。
彼女の「内閣の悪事を暴きたい」という熱意はわかります。
しかし、もし本当に内閣が悪じゃなかったらどうするんだろう、と思ってしまいます。
証拠もなく『内閣=悪』の決めつけで話がスタートしていないでしょうか。
自身の考えを主張するのは自由だし、「証拠をだせ」とまでは言いません。
せめてやり方を考え、冷静で公平な目で内閣を批判できていれば、もう少し賛同できるのにと思うのです。