ウォールフラワーのわかりにくい所を解説/原題、ロッキーホラーショー、手紙の相手…

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主人公が手紙を書いていた相手

原作では、主人公が手紙を書いていた『トモダチ』は、会ったことも喋ったこともない相手とされています。(自殺した親友でもありませんし、パトリックでもサムでもありません)

ただし、それ以上は明言されていません
「もしかして精神病の産物?」とか「イマジナリーフレンドみたいなもの?」という解釈もできますし、「実は文通相手がいた」という身も蓋もない解釈も可能です。

個人的には、主人公が手紙の体裁で書いた私小説だと思っています。

原作は主人公が『トモダチ』に向けた手紙だけでストーリーが進んでいく、いわゆる書簡体小説です。

書簡体小説の例
若きウェルテルの悩み(ゲーテ)、トカトントン(太宰治)、カンガルー通信(村上春樹)、恋文の技術(森見登美彦)など

主人公は作家志望でしたし、サムにタイプライターをプレゼントされたときに「私たちのことを書いて」と言われたエピソードもありましたよね。

つまり映画の原作となった小説は

「この本は大人になった主人公が青春時代を回想して書いた私小説で、その語り方として“架空のトモダチへの手紙”という体裁をとった自伝的小説なのだ。作者は主人公自身なのだ。」

というメタ構造なんです。

いきなり映画を観ると、少しわかりにくいですね。

タイトルの意味

原作小説の話がでたついでに、タイトル『ウォールフラワー』、そして原題“The Perks of Being Wallflower”について解説します。

まず“Wallflower”とは、直訳すると「壁の花」ですが、向こうでは「ダンスパーティーで踊りに参加できず傍観者になっているはみ出し者」のことを意味するそうです。なるほど、まさに主人公そのものです。

次に“The Perks”ですが、辞書でperkをひくと「(通例 -sで)特典、役得、臨時収入」となっています。そのままだとよくわからないタイトルになってしまいますが、これらの単語に共通するニュアンスをすくい取れば「嬉しいおまけ」あるいは「思いがけない幸運」というところでしょうか。

物語に沿って解釈すれば、“The Perks of Being Wallflower”は“ダンスパーティーで踊れなかったイケてない僕に訪れた、思いがけない幸運”といった意味になるかと思います。

映画冒頭、主人公はひとりぼっちで高校生活を送ろうとしていました。実はアメリカの高校は“クラス”という概念が薄いせいで、日本以上にぼっちには厳しい環境なんです。

アメリカで過ごした経験があるMasaponさんのブログから引用します。

アメリカは個人主義とか言われていますが、
Masaponの実感としては、
むしろ集団志向が非常に強いです!

どちらかと言うと、
「一人で過ごしても許される」傾向は、
アメリカよりも日本の方が強いです。

アメリカの学校に所属する場合、
常に誰かしらの仲間とつるまないと、
あっという間に周囲から孤立するし、
何かと待遇も悪くなります。

パトリックやサラとの出会いが主人公にとってどれだけ嬉しかったか、分かるような気がします。

みんな見ろ!ゲイとゴスのキスシーンだ!

このセリフについて一緒に観ていた妻に「どういう意味?」と聞かれたので解説します。
この映画を語る上で重要なキーワードが『アメリカのスクールカースト』です。

スクールカーストとは、学校生活の中に存在する『生徒間の階層意識』。
自分の属性により暗黙のうちに地位や待遇が定められているのです。

日本でも似たような「リア充」「オタク」といった分類はありますが、アメリカでは“体育会系こそが上位で、文化系は下位”という明確な不文律がある点が違います。
また、前述の通りアメリカはクラスの概念が薄いため、それぞれのグループ間の交流はほとんどなく、下位のグループはまるで存在しないかのように無視される…という傾向もあります。

スクールカースト上位:ジョックス

ピラミッドの頂点に位置するのが『ジョック』と呼ばれる体育会系のヒーロー達。
しばしば『ナード』を馬鹿にし、無視し、変なあだ名をつけて呼んで楽しみながら、圧倒的な人気を誇ります。

スクールカースト中位

彼らの取り巻きや、無難な趣味のグループが中間層に入ります。
ポジションや志向によっていろいろ分類がありますが、今回は省きます。

スクールカースト下位:ナード

そして底辺の層に位置するのが『ナード』と呼ばれる人間達。

彼らもいくつかジャンルに分かれています。
『ギーク』と呼ばれるパソコンオタク、『ブレイン』と呼ばれるガリ勉は日本人にもわかりやすいですが、アメリカではそれに加えて『ゴス』と呼ばれるパンク等の音楽・ゴシック風のファッションに傾倒する者、『サブカルチャー』と呼ばれるサブカルチャー趣味の人間、音楽が趣味の『バンドギーク』等もナードに含まれます。

そしてゲイやレズビアンなど同性愛者もまた、最下層に見られます。

そう、つまり“ゲイとゴスのキスシーンだ!”とは自分達が最下層であることへの自虐ネタなんですね。

ただ二人とも“ゲイ”と“ゴス”であることを誇らしく思っているようにも見えました。
スクールカーストで下位に位置づけられることは決して恥ずべきことでもないし、それぞれに楽しい学校生活を送っていたりします。そして、それこそこの映画のテーマなんだと思います。

パトリックとブラッド

主人公の友人パトリックは、ブラッドという男子と恋愛関係にありました。同性愛ですね。

パトリックは自分がゲイであることを(少なくとも仲間内には)公言していましたが、ブラッドは友人にも親にも黙っていたようです。
さらにブラッドはパトリックとの関係を秘密にするだけでなく、学校内、特に仲間の前ではではとても冷淡な態度をとっていました。

実はここにもスクールカーストの問題が潜んでいます。
ブラッドはアメフトチームの選手で、クォーターバックを任されていました。クォーターバックとはアメフトの花形ポジション。野球で言えばチームのエースピッチャーです。
つまりブラッドは、ジョックスの中のジョックス、スクールカーストの頂点に位置していたのです。

そんな彼が、ゲイのパトリックと恋人関係だったと知れたら…?きっと、彼は今まで通りの高校生活は送れないことでしょう。

ただでさえ同性愛のカミングアウトは難しいですし、アメリカの保守層では、キリスト教の考えに基づき同性愛を忌み嫌う風潮があります。(「父親に殴られた」というエピソードからも父権の強い保守的な家庭が想像されますね)

それに加え、ブラッドには「スクールカーストの頂点から転落してしまう」という恐怖もあったに違いありません。
だからこそ、パトリックや同性愛にはまるで関わりがないように振る舞っていたし、パトリックもその心情を理解していたのでしょう。(最後は親バレと破局の動揺もあって喧嘩になってしまいましたが。)

なおスクールカースト最下層のゲイ達は、頂点のジョッグス達の侮蔑に苦しみながらも、男性的な彼らに魅了され、恋をしてしまうことが多々あるそうです…。苦しい恋ですね…。

ロッキー・ホラー・ショー

映画の中で唐突に現れた、謎のゲイ・ショー(?)はいったい何だったのでしょう。

あの映画『ロッキー・ホラー・ショー』は1975年に公開されたカルトムービーの王様です。
ロックンロールへのノスタルジーと、同性愛と、SFと、B級ホラーを融合させた奇抜すぎる映画です。

カニバリズム(食人)あり、乱交あり、女装あり、麻薬ありとまさに何でも有りの内容から、試写会では観客が次々と途中退席する散々な低評価だったそうです。当然、公開を開始してもほとんどヒットしませんでした。

ところが、次第になぜか異常にリピーターが多いことが判明し、深夜上映が続けられることになります。

さらにある時、この映画にハマった一人の青年(なんと高校教師)が「ロッキー・ホラー・ファンクラブ」を結成します。
彼らは毎週末の深夜に映画館にコスプレをして集まり、スクリーンの前で自分たちも登場人物を演じたり、一緒に歌い、踊り、スクリーンに向けてツッコミを入れたり、紙吹雪を投げるという行為を楽しみ出しました。

今でいう『観客参加型上映』、『体験する映画』として、「ロッキー・ホラー・ショー」は一つの文化になりました。
公開から40年以上がたった今でも、世界のどこかのミッドナイトシアターで上映が続いています。パトリックやサムたちが演じていたのも、その街の「ロッキーホラーショー」の深夜上映会だったのでしょう。

なぜこんな奇抜な映画が、今なお愛されているのでしょうか?
この映画の脚本家はインタビューで「『人と違うこと』を祝福している点が、評価されたのだと思うよ」と語っています。(彼自身もトランスジェンダーであると告白しています)

なるほど、パトリックたちがこの映画を好きになるのも、納得できますね。

原作小説とエマ・ワトソンの逸話

この映画の原作小説は1999年に発売された後、アメリカの高校生の間で次第に評判が広がり、2000年代には爆発的な支持を受けました。スクールカーストの中で悩み、苦しみながらも、かけがえのない高校生活を送る登場人物たちの等身大の姿に共感を覚えたのでしょう。

ジュブナイル小説の代表格・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の再来とも言われており、自殺、同性愛、セックスがでてくるにもかかわらず国語の教科書に採用されたり、逆に禁書として読むのを禁じる高校も出てくるなど、大きな反響を呼びました。

映画化の話もでていましたが、予算の都合などで長い間実現しませんでした。
しかし、この映画でサム役を演じたエマ・ワトソンがこの物語を映画化したいと働きかけ、ようやく実現したということです。

エマ・ワトソンは1990年生まれ。原作小説がブームを迎えた2000年代に、ちょうど10代の多感な時期を過ごしています。
ただでさえ、8歳の頃から「ハリー・ポッターの子」と世界中に知られてしまった彼女です。周りと自分が違うことや、人間関係など、学校生活の中でいろいろ悩むこともあっただろうし、だからこそ余計にこの小説が心に響いたんでしょうね。

エマ・ワトソンや主人公役のローガン・ラーマン、パトリック役のエズラ・ミラーは撮影中にとてもいい友人となりました。
撮影の合間にバンドを結成して演奏したり、宿泊してるホテルでみんなで騒いでホテルの支配人に怒られたりと、演じている役さながらの楽しい日々を過ごしていたそうです(笑)

ピックアップトラックでトンネルの中を駆け抜けながら、荷台で立ち上がり両手を広げる象徴的なシーンがありましたよね。
実はあのシーン、実際に時速100キロで失踪する車の上で、エマ・ワトソン本人が行ったものなんです。
もちろんスタッフ側からは「スタントマンを使おう」「合成でつくろう」という提案したのですが、彼女はどうしてもあのシーンを自分でやるといって聞かなかったそうです。

単なる「役者根性」なのかもしれません。
でも僕には、彼女があのトラックの荷台で、実際になにかを感じたかったように思えるのです。

それはきっと、サムや主人公が、あるいは観客が10代の日々に感じた“永遠”となにひとつ違わないのでしょう。
この物語は本当に“等身大”なんでしょうね。

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