バートン・フィンクのネタバレ解説・考察/コーエン兄弟の根底にある“市民と邪悪”

この映画を観終わったときに、首を傾げた人は多いはずです。

  • この作品はなにを言いたいのか?
  • 単なる不条理で非現実的な話なのか?
  • あのラストはいったいなんなのか??

ひとつひとつ解説していきたいと思います。

この映画のテーマはなにか

まず、最初に断っておきますが、作中に散りばめられたヒントっぽいエッセンス(聖書の一説、ネブカドネザル)については深堀りしません。

あれは雰囲気づくり&観客が自由に考察できるようにそれっぽい用語を散りばめただけじゃないかと考えています。

(エヴァンゲリオンと似たようなもの?)

じゃあ、この映画はそれっぽい雰囲気でキメただけで全く“芯”がないのかと言えば、それもまた違います。

監督であるコーエン兄弟の他の作品と並べてみると、この作品に込められたテーマを見抜くことができるのです。

ではコーエン兄弟作品の根底を支える“芯”とはなにか?

それは“小市民”と“邪悪”です。

過去の作品を紹介しながら解説します。

「邪悪」と「小市民」

コーエン兄弟の作品をいくつかピックアップしてみると「絶対的に邪悪な存在」「魔が差した小市民の悲劇」が大きな要素であることに気がつきます。

たとえば代表作のファーゴをみてみましょう。

この映画はお金に困った中年男が狂言誘拐を企てるところから始まります。

しかし、誘拐犯役に雇った悪党が異常な凶行に走り出し、それに巻き込まれ破滅に導かれていく…というストーリーです。

お金に困った中年男が犯罪に手を染めてしまう様は、まさに「魔が差した小市民」ですし、彼には悲劇的な結果が待ち受けています。

そして彼を破滅に導く悪党は「絶対的に邪悪な存在」そのもの。最後の登場シーンの横顔は、非常に印象的でした。

次に、同じく代表作の『ノーカントリー』を観てみましょう。

この映画で「魔が差した小市民」にあたる主人公の男は、ギャングの銃撃戦が起こったと思われる現場に偶然出くわす。

そこで彼は死体のそばに札束入りのカバンをみつけ、なんとこっそり持ち逃げしてしまいます。

しかしやはりギャングにそれを嗅ぎつけられ、殺し屋を差し向けられてしまい、人生が破綻していきます。

彼を追いつめていく殺し屋が「絶対的に邪悪な存在」に当たります。

エアーコンプレッサーを武器にするという一見コミカルな風貌ながら、寡黙で冷酷無慈悲な殺戮者

サイコパスな思考回路とアンバランスな存在感が素晴らしく、映画史に残る名悪役と言えます。

殺し屋アントン・シガーは映画史に残る名悪役ランキングにもたびたび選出されている

このようにどちらの映画も

魔が差した小市民が悪事に手を染め

絶対的に邪悪な存在を招き寄せ

身の破滅を招く

という構成が軸になっています。

ある意味「勧善懲悪」というか、「魔が差すことで破滅を招く」という、いわば倫理的な信念に基づいているようにも感じます。

本作における邪悪

そして、この『バートン・フィンク』もまた同じ構成と言えます。

チャーリー(殺人鬼ムント)が絶対的な邪悪という点に異論はないでしょう。

非現実的な描写と邪悪っぷりは比喩でなく『悪魔そのもの』と考えたほうがいいくらいです。

初登場時の「隣室から聞こえる不気味な笑い声」だとか彼が近づくとじっとりと暑くなり、火が巻き起こる様子は、まさに昔話における「悪魔」の描写を彷彿とさせます。

さらに、暑さによってバートン氏の部屋の壁紙が剥がれてしまう描写ですが、実はチャーリーが部屋にいるときか、さっきまで部屋にいたときのみ起こっています。

彼が超常的な存在であることを補強していますね。

彼が悪魔そのものだとすると、あの不気味なホテルもまた、「悪魔の巣」と言えるかもしれません。

チャーリーのセリフである「お前は後から俺の住処へ上がり込んできたのに、音がうるさいと文句を言う」も、

よくよく考えれば住処という言葉には部屋を借りている以上の縄張り意識を感じてしまいます。

他にも、あのホテルには不気味な点がいくつかあります。

虚ろな目をしたエレベーター係の老人との「聖書を読んだことありますか?」「聖書…?たぶんね。聞いたことがあるね」という異様なやりとり。

どこまでもかの続くような長い廊下。

チャーリーの“耳ダレ”と呼応するように溶け落ちてくる壁紙の接着剤…。

あの場所はすでに、悪魔の支配下にある場所だったのではないでしょうか。

そういえば二人の部屋があったのも、悪魔を表す数字の「6」階でしたね。

ひょっとしたらあの“ホテル・アール”は、悪魔であるチャーリーが住処にしたことで徐々にしょう気に浸食されていき、異界へと繋がってしまった場所…なんて設定なのかもしれませんね。

(ファンタジーの読みすぎですかねw)

バートン氏は小市民だが…

物語の構成において、チャーリーが「絶対的な邪悪」だとしたら、もう一方の「破滅していく小市民」はバートン・フィンク氏が該当します。

ところが先ほど述べた『ファーゴ』や『ノーカントリー』と比べて、このバートン・フィンク氏はちょっとだけニュアンスが異なることに気づいたかもしれません。

『ファーゴ』で狂言誘拐を試みて、大金を騙し取ろうとした中年男性、

あるいは『ノーカントリー』でギャングの金を持ち逃げしようとした男。

彼らは明確に“魔が差して”悪事に手を染めたせいで、邪悪な存在を招き入れてしまいました。

言ってしまえば、自業自得なのです。

ところが、バートン・フィンク氏が悪いことをしたか?と考えると、どうも首をひねります。

たしかに他人の女にこっそり手を出してしまったのは倫理的にNGでしたが、相手の男性がクズ男だったり、女性側から誘惑してきた描写もあって、上記二作と比べると自業自得感が弱いと感じます。

その後、殺人事件の隠蔽を謀ったのは確かに悪ですが、「魔が差したら、悲劇に巻き込まれていった」という流れとは順序が逆です。

バートン氏が悲劇に巻き込まれてしまったのは、悪事に手を染めたからではなく、うっかり迷い込んだ悪魔の巣(ホテルアール)で館の主である悪魔に対する苦情の電話を入れてしまい、悪魔・チャーリーの逆鱗に触れてしまったせいにみえます。

これは虎の尾ならぬ“悪魔の尾”を踏んでしまった不幸というか、“魔が差した”というより“運が悪い”と言うべき状況です。

このように、ただただ不運だっただけと思えるバートン氏ですが、実はあるポイントに注目すると、彼にも“魔が差した”点が設定されていることに気づきます。

それは劇作家、映画の脚本家という彼の職業にヒントがあります。

バートン氏の過ちとは?

鑑賞しながら感じていた人も多いでしょうが、バートン氏のモデルは脚本・監督のコーエン兄弟自身になります。

バートン氏もコーエン兄弟もユダヤ系であること、ハリウッドでなくニューヨークを拠点にしていること、さらには作品のテーマに「小市民」を選んでいるところまで共通しています。

見た目も何となく似ています。

(コーエン兄弟)

そしてバートン氏の描写には、前作『ミラーズ・クロッシング』執筆中にスランプに苦しんだ二人の経験が活かされていることが明言されています。

どれだけもがき苦しんでも満足のいく脚本が書けない心境、刻一刻に迫る締め切りと身の破滅…スランプ中の彼らは何を考えたのでしょうか?

劇中で明言こそされていませんが、コーエン兄弟、そしてバートン氏の脳裏にこんな思いがよぎっても不思議はありません。

「ああ、今すぐ素晴らしい脚本を書けるのならば、悪魔と取引してもいい…

そう、この時の監督の思いこそが、映画『バートン・フィンク』を構成する軸になっていると思うのです。

なお「悪魔に魂を売る」というと日本では「なんとしてでも目的を達成したい」という意気込みのようにも語られますが、キリスト教的価値観では「自分の欲望のために、他人の不幸を厭わず、自らが悪魔になる行為」としてかなりネガティブに捉えられます。

ファウスト伝説の悪魔・メフィストフェレス。望みを叶える代わりに魂を奪う(死後、自分の支配下におく)

もう一度映画の流れをみてみよう

上記を念頭に置いた映画の流れはこうなります。

運悪く悪魔の巣『ホテル・アール』に迷い込んでしまったバートン氏は、さらにその館の主である悪魔(チャーリー)にクレームを入れるというミスを犯してしまいます。

怒りに燃えた悪魔(チャーリー)ですが、彼の深層心理に「悪魔と取り引きしてでも傑作を書きたい」という欲求と焦り、すなわち“悪魔との取引”を求める心の隙があるのに気づきました。

そこで悪魔(チャーリー)は、ただ彼を撃ち殺すのではなく、もっと残酷な仕返しをすることにしました。

その仕返しとは、願いをちらつかせ“悪魔に魂を売る”よう仕向けること。すなわち、自らとバートン氏の間で悪魔の契約を結ばせることにしたのです。

バートン氏は、チャーリーのことを悪魔と知らないまま交流を深めていきます。

さらには殺人事件の隠蔽でチャーリーに協力をあおぐことで、いつのまにか“彼なしでは生きていけない”という立場に置かれていきます。

…今にして思えば、あの殺人事件そのものが、チャーリーを頼るように誘導するための罠だったのでしょうが。

チャーリーはさらに「俺をモデルにすれば脚本が書けるようになる」という言葉を残しました。

そして、このタイミングが重要なのですが、刑事たちにチャーリーの正体を聞きながら白を切った直後(つまりチャーリーの味方になることが確定した後)、バートン氏にインスピレーションが舞い降り、あっという間に一冊の脚本を書き上げてしまいました。

つまり、バートン氏が「彼(悪魔)の手先になる」という態度を表明した直後、その報酬として「傑作のアイデア」という報酬を手に入れたのです。

これは間接的とはいえ、“悪魔と契約を交わした”状態といえます。

すでにこの時点で、バートン氏は少しずつ正気を失っていたようにも感じます。

バートン氏はエージェントであるガーランド氏にいい脚本が書けそうだ!と電話を書けますが、あまりのハイテンションに「おかしい」「大丈夫なのか?」と心配をされています。
ダンスクラブに出かけても「俺は脚本家だ!」と大暴れをしていました。

彼の精神が正常と思うには、どうも不自然なのです。

すでに彼は「悪魔の手先」になりつつあり、徐々に精神を浸食されていたのでしょう。

さて、はたして、バートン氏は悪魔の罠にはめられただけなのでしょうか?

私はそうではないと感じます。彼は心のどこかで、チャーリーが悪魔であり、これは「悪魔の契約」だと理解していたのではないでしょうか。

その証拠はチャーリーが警察達の前に姿を現したシーンにあります。

バートン氏は、彼の出現を予感して見せたり、正体をみても慌てふためく様子がない等、無自覚であれば説明がつかない行動をいくつか見せます。

それだけではなく、チャーリーに向かってこんな問いを発します

「なぜ僕を選んだ」

チャーリー自分の住処に迷い込んできたことを理由にあげながら、こう続けます。そのセリフは、まさに悪魔の詭弁そのものでした。

「俺はマトモだし、他の奴らを哀れに思う。かわいそうに。罠にかかって身動きができない。だから解き放ってやったのさ」

繰り返しますが、この作品はコーエン兄弟が執筆のスランプに陥った時の苦しさをもとにつくられました。

「あのとき悪魔がやってきたら、本当に取り引きしていたかもしれない」という当時の心境と自虐的なユーモアをもとに、バートン氏というキャラクターを作り上げたのです。

この映画の核を構成するのは、まさに「魔が差して悪魔に魂を売ってしまっ小市民」「絶対的な邪悪である悪魔」という、コーエン兄弟作品に共通するテーマそのものだったのです。

そして、「魔が差した小市民」たるバートン氏は、やはり破滅に見舞われます

傑作と思った作品では社長の逆鱗に触れ、「作品は書かせても製作はしない」という生き地獄を宣言されます。

(ここで人生の破滅として「作品は書かせても製作はしない」を提示するあたり、コーエン兄弟の映画製作への熱い情熱が垣間見えますねw)

さらには、さらなる「悲劇」として、あの不可思議なラストシーンに繋がっていくのです。

ラストシーンの解釈

最終的に彼は、砂浜と美女…まるで「ホテルアール」の部屋にあった絵画そのものの空間に辿り着きます。

これはいったい何を意味するのでしょう。

一見ただの不条理描写ですが、超常的な力を持つ「悪魔」という要素と、魔が差した男の身の破滅というコーエン兄弟のテーマを重ね合わせた時、一つの仮説が導けます。

バートン氏は、あの絵画が飾られていた悪魔の巣「ホテルアール」に取り込まれてしまったのではないでしょうか。

悪魔と契約を交わしたバートン氏は、魂と意志を奪われてしまい、ついには完全に悪魔の奴隷に成り果ててしまったのです。

彼は、チャーリーの住処たる「ホテルアール」で永遠に囚われ、魂と意志を奪われた抜け殻になって、彼に尽くし続けているのではないでしょうか。

もしかしたら、次にホテルアールに訪れた宿泊客は、虚ろな目をした眼鏡のユダヤ人が、延々とホテルの片隅でタイプライターを叩く姿を目にするのかもしれません。

それとも虚ろな目でエレベーターのスイッチを押し続ける姿なのかもしれませんし、無数の靴を磨き続ける姿なのかもしれません。(彼らも、もしかしたら以前は…?)

あるいは宿泊客は、自分の客室で一枚の奇妙な絵画を目にするのかもしれません。

後ろを向いた水着の美女と、砂浜を延々と歩き続ける哀れな男が描かれた、一枚の絵を。

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