ズートピアのネタバレ感想/国内の人種差別には鈍感な日本人

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zootopia
ズートピアを観れば、すぐにそのテーマ性の深さに気づかされます。
そして「アメリカの抱えている人種差別問題を鋭く抉り出している!」「相互理解こそこれからの世界に必要なのだ!」との感想を抱くことかと思います。
それは決して間違っていない、間違っていないんですけど…。
その感想は、やっぱり「アメリカの問題」なんです。

映画は楽しかった

映画自体は、気軽に楽しめるクオリティの高い映画でした!
個人的には建物から出てくるネズミたちがチョコチョコ歩いてアイスキャンデー買ってるシーンとか、おもいっきり「ゴッドファーザー」を意識したハリネズミ“ミスタービッグ”が大好きでした。

あ!あと「ゾウはいいなあ、記憶力がよくてさあ」とボヤく裸のヌーも好きです(※ちゃんと調べたらヤクでした)
ああいう鉄板ネタは良いですねえ。大阪人の嫁日く、「ああいうべったべたなギャグが大切。」らしいです(笑)

動物たちの特徴が活きているユーモラスな動きは、さすがディズニーって感じでしたね。

もともとディズニーは動物の記録映画も手掛けていたためか、動物の動きの描写を得意としています。 動物ドキュメンタリー「砂漠は生きている」「滅び行く大草原」などでアカデミー賞も受賞しているんですよ。

差別の実態

興味深いことに、ウサギの警察官ジュディがあう差別って、実はほんの少数の動物によるものなんですよね。
具体的にいうと、彼女を差別的に扱ったのは、劇中にたった3匹だけなんです。幼い頃のいじめっ子ギツネ、上司であるボゴ署長、そして彼女の父親。この3人だけなんです。

彼らはそれぞれが、差別問題の代表例を体現しているようにも思えます。

いじめっこギツネ◆教育の必要性

彼は、子供による差別発言を象徴しています。
自分で子育てしてみて実感しましたが、子供って道徳心が育ってないから、無邪気にひどい発言しちゃうんですよね…。

テレビに映った黒人をみて「こわいー!」と怯えたり、街で身体障害者をみて「ヘンなの!」と言ったり。
自分との「違い」に目が行ってしまうのは、子供にとって(大人でも)当然のことです。 反射的に「変なの!」と思ってしまうのも、自然な発想かもしれません

でも、だからといって決して許されるわけではありません。誰かが傷ついている以上、それを放置するわけにはいきません。その瞬間自分が傍にいれば、いけないことだと教えるんですけど…。

親の知らない所で友達に対し差別的な発言をしないだろうか、いつも心配です。
親からすれば決して悪い子ではない、心の優しいい子だとは思っていても、大人の気が付かない所で、配慮のない発言をしてはいないとも限らないんです。

道徳心って、成長と共に勝手に育ってくるものなんでしょうか?それとも周りの大人が言葉にして教えていくべきことなんでしょうか?
僕は、ある程度周りの大人が「いけないことだよ」と教える必要があると考えています。
無法地帯で、自然と道徳心が育つとは思えないのです。

粘り強く指導し、正しい関わり方を教えて育てること。
まさに教育こそが重要なんです。

ボゴ署長◆就労での差別

ウサギのジュディは、街中で露骨に差別されたりはしませんでしたよね。
でもたった一人、上司のボゴ署長の理解がないだけで、毎日非常に苦しい思いをしていました。
彼は、就労場の差別の象徴でした。

言うまでも無く、仕事とは、人生において欠かせない要素です。
自分の能力を活かし、誰かの役に立つことです。社会に自分という存在を認められる手段です。
(それにもちろん、お金を稼ぐ手段でもあります。)

自分の能力を認めてもらえない、感謝もされない、十分なお金も稼げない。
これって、ものすごくつらいことですよね。

人種差別で苦しむ方たちは、街中でのあからさまな暴言に苦しんでいるわけではありません。
「能力があっても、望む仕事につかせてもらえない。」という就労上の差別によって、じわじわと追いつめられているんです。

お父さん◆諦めが差別を隠蔽する

そして意外なことに、ジュディの足を引っ張っていたのが、ジュディの父親でした。
もちろん彼は悪意を持っていたわけではありません。しかし彼は「どうせウサギなんだから」「ウサギらしい仕事につけばいい」という諦めの象徴です。

諦めとは、差別を考える上で非常に根深い問題なんです。

実際、差別で苦しんでいる人間は、つらいことに立ち向かえるだけの強い人間であることが多いです。ほとんどの人は、予想されるつらさと結局打ち勝てない無力感に諦めの気持ちを抱き、差別されない「ウサギらしい生き方」を選ぼうとします
差別被害者自身が、心の中に「どうせ無理だから」というフェンスを作ってしまうんです。

こうなると、「差別で苦しんでいる」人がいなくなり、見た目上差別が無くなったように見えてしまいます。
でも、実際には、戦う前に諦めているだけ。
彼らももし差別がなければ、やってみたいことがあったかもしれません。
差別がある世界では、目に見えているよりずっと多くの「見えない被害者」が、今でも残っているのです。

*******

どうでしょうか。
たった3人!たった3人が差別の気持ちを抱いていただけで、彼女はなんと生きづらかったことでしょう。
映画ではこの3人を通して、差別にあう代表的なシーンを非常に上手く描けていたと思います。

幼い子供時代は無邪気に残酷な言葉を浴びせられ、社会に出ては就労上の差別に苦しめられ、いつしか諦めて戦おうとも思わなくなる…。

この映画が、差別の苦しみを理解するのに非常にいい教材になる由縁です

日本ではどうだろうか

映画を観てどんな感想を抱いたでしょうか。

「そうなんだ、差別問題って大変なんだな。」

「世界から差別がなくなればいいのにね。」

そんな風に「この映画は世界(アメリカ)の抱える問題を描き出している!」と思ってしまうところに、日本人にとっての落とし穴があります。
日本こそが、差別大国であるという事実に、気づいていないのです。

あるいは「日本で人種差別??」と思われるかもしれません。
自分はそんなことしているつもりはないと。

人種差別と言えば、すぐさま思い浮かぶのは「黒人・白人」の肌の色による差別ですよね。 いじめ、就職での差別、アメリカ等で根強く残っている大きな難問ですよね。(最近ではアジア系民族や、テロ事件以降厳しい目にさらされているイスラム系民族への差別も問題となっていますが)。

たしかに、ほとんどの日本人は「黒人・白人」問題に対し、「肌の色で差別するなんてひどいよね」と正しい判断を下すことができているとは思います。

しかし、日本に根強くある差別問題は肌の色云々ではありません。
それは国籍問題です。
私たちは、「日本人」と「外国人」の違いになると、急に冷酷になってしまうんです。

ここで言いたいのは、最近特にテレビで溢れている「日本持ち上げ番組」(「日本人はこんないい性質をもってい る!」「○○人ってこんな性格!」って番組)についてではありません。まあ、好きじゃないですけど。

今回指摘したいのは、日本人が気づいていないだけで、日本に溢れている外国人差別についてです。

部屋を借りられない

たとえば日本では、外国人が賃貸で部屋を借りるのが非常に困難です。
保証人がいないと借りられないとか、いたとしても「外国人だから」「日本語が通じないかもしれないから」という理由で断られちゃうんです。
収入があっても、日本語が堪能でも、「外国人だから」という理由で断られてしまうのです!!

外国人相手だと不審に思ってしまうのでしょうか?日本人入居者には素性調査とかしないのに、変な話ですね。

携帯を契約できない

携帯ショップで契約をしようとしたところ、断られてしまったり、非常にたくさんの書類を科せられるケースもあります。 日本人でないというだけで「犯罪目的に使われないか?」と警戒されてしまうのでしょうか。

これも不思議な話です。もしもスーパーが「外国人だから」という理由で物を売らなかったら、おそらく非常に批判されるでしょう。しかし、携帯ショップではなぜかこの理屈が通じないようです。

正職員として採用しない

日本で外国人の雇用は非常に限られています。
雇用するにしても、アルバイトだったり、単年契約だったり、安定した雇用とは程遠い状況にあります。「言語の問題がある」「いつか国に帰るかもしれない」とリスクを考慮してのことでしょうか。
彼らが日本に定住しようと思うと、自ら飲食店を経営するなどして、事業主になるしかないのです。

日本にいさせてくれない

日本では、外国人に対して滞在日数を厳しく制限しています。日本が大好きで、日本に滞在しようとしていた友人も、ビザの関係で帰国を余儀なくされていました。
また、職についていたとしても、一度都合で退職してしまうと、すぐさま帰国を促されます。就職活動をしようにも、それすら許されないのです。

外国人に対する不信感

なにより、これらの差別に対し、多くの日本人は「だって仕方ないことだろ」という態度をとります。

多くの日本人は、外国人に対して「犯罪の可能性がある」「管理しないと治安が悪化する」と根強い不信感があります。
その態度こそが差別なのだという事に、気が付いていないのです。

先日、町内会の総会に出席したらそれを痛感しました。
「最近、町内のアパートに外国人が増えている」という議題があがり、「非常に不安」「声掛けをして防犯をしよ う」「町内には小さい子供もいるんだから」「戸締りに気を付けて」などの発言がされていたのです。

ヒドイもんですね…。

多くの日本人は、慣れていないせいか、外国人を非常に警戒しています。
日本に来てもいいけど、自由にはさせない。遠巻きに様子をうかがう…。 そういう態度で迎えられた人間がどんな気持ちになるでしょうか。それこそが差別だと気がつかないのでしょうか…。

僕が差別にこだわるワケ

僕は外国人に対する差別にこだわっている方かもしれません。
それには、子供のころのひとつの苦い記憶があります。
小学校のころ同じクラスだった、インド人のNのことです。

肌の色は濃かったけど、整った目鼻が印象的な女の子でした。
彼女は日本語は話せたのですが、どこかみんなと距離を置くような子でした。もともと奥手だったのかもしれませんし、言葉の難しさがあったのか、彼女なりに壁を感じていたのかもしれません。

たしか、夏休みの水やり当番で、僕は彼女とペアになりました。
特別なにかをした記憶もありませんし、一緒に水やりをして、ちょっとおしゃべりをしたのだと思います。 2学期になっても、僕はNと仲がよかったと思います。
まあ、小学校6年生の男女なので、たまにおしゃべりするくらいでしたが。

ところがある日クラスの男の子達にニヤニヤしてからかわれました。

「お前、よくNなんかと平気で話してるよな~」

その時はじめて、クラスの男子がNを“なんとなく避けていた”ことを知りました。見た目が日本人と大きく異なること、独特の体臭がすること、やたらと運動能力が高いこと…(すごく足が速かったのを覚えています)
そんなバカげた理由でした。

彼女が皆と距離をおいていたのは、傷つかないようにするためだったのです。
夏休みの水やり当番でペアになったのも、他の男子が彼女の当番の日を避け、その空気に鈍感だった僕が選ばれた結果だったのでしょう。

「お前、Nのこと好きなのかよw」とからかわれ、慌てた僕は「そんなことねえし!!」と強く否定しました。

それ以来、彼女とは話しにくくなってしまいました。

ある日、放課後の教室で、男子数人が何かを投げ合っていました。それはNの忘れ物のハンカチか何かでした。 彼らは「これはバイキン。触ったらアウト」という遊びをしていたのです。
投げつけられたそれを、僕は慌ててよけました。
彼女を避けるつもりはなかったけど、ゲームという意識が強かったし、下手にかばって「好きな人」扱いされたくなかったのです。

しばらく避けたり投げ合ったりして遊んでいたら、急に教室の扉が開きました。
そこにはNが立っていました。
僕らが何をしていたか、彼女は気づいたかもしれませんし、全然気がついていなかったのかもしれません。それは今でもわかりません。

でも僕の思い出の中では、彼女は悲しげだけれど、「仕方ない」と諦めるような目をしていたような気がするんです。

それ以来、彼女と話す機会はほとんどないまま卒業を迎え、そして彼女とは会えなくなりました。

今でも僕は、彼女に謝りたいと思っているんです。

まとめ

僕は彼女に特別な配慮をしたかったわけでもなく、自然に、普通に話したいだけでした。

映画では、世界に特別な何かが起こったわけではありません。キツネのワイルドを相棒にして、一緒に働くようになった、ただそれだけです。
でも、たったそれだけが、当時の僕にははできなかったんです。

現実でも、自分のデスクの隣で外国人が一緒に働いて、信頼関係を築けるような世の中になってほしい。
いや、なっていくべきだと思うんです。

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