映画『愛する人』ネタバレ感想/監督の「理想の母親像」への違和感

motherandchild
日本では馴染みの薄い「里親」制度を舞台にした、母と子のそれぞれの感情を描いた映画でした。

邦題こそ『愛する人』となっていますが、原題では『Mother and Child』。完全に母親と子供の関係性に絞って焦点を当ててるんですね。たしかに、この映画において男性は完全に添え物です。

でも、男性監督がつくったからなのか、僕はこの映画に、『おおかみこどもの雨と雪』だとか『わたしおかあさんだから』にもあった、ある種の押しつけがましさを感じてしまったのです。

まず、里親とは

経済的な理由などにより、子供を養子に出す。「里親」と呼ばれる制度です。産まれたばかりの赤ん坊をすぐに里親家庭に送り出す様子は映画『JUNO』を彷彿とさせますね。

日本でも同じ里親制度はありますが、大抵は「施設」で育てられています。
一方、欧米では『子供は極力家庭で育てるべき』という考え方もあり、あちらではどちらかというと里親の方が主流。決して珍しい行為ではありません。
(キリスト教で妊娠中絶が禁じられているからでしょうか。そういえば映画でも教会が仲介をしていましたね…)

費用面の負担もあるでしょうが、個人的には日本でも里親制度が広まってほしいなぁと思います。

里親、養子縁組は日本でも同様の取り組みは存在しています。
しかし、里子に対する理解も少なく、行政が里親に課す条件も非常に厳しい(共働きダメ、実子がいたらダメなど。自治体により大きく異なる。)等、欧米に比べて遅れているようです。

子供は実の親が育てるべき?

ところで、『JUNO』が里親、養子縁組をある程度肯定的に描いたのに対し、『愛する人』ではそこまであからさまではないものの、随所に子供を手放すことに対して否定的なニュアンスが感じられました。

  • 昔子供を手放した女性カレン(アネット・ベニング)は、今もずっと後悔している。
  • 子供を手放そうと思っていた若い女性が、突然母性に目覚め、子供を手放すのをやめてしまう。
  • 里子として育ってられた女性弁護士(ナオミ・ワッツ)は、優れた能力と地位を手に入れたにも関わらず、精神的に満たされていない日々を送っている。

これらのエピソードには、脚本も務めたロドリゴ・ガルシア監督の「子供を他人に預けても、誰も幸せにはなれない」という強い信念を感じます。

これがこの映画から感じた一つ目の違和感です。

僕にはその信念が正しいとはとても思えないのですが、まぁ、そこは個人の考え方の違いでしょうか。

父親の不在

もう一つの違和感は、映画のタイトル『Mother and Child』
親子の映画でありながら、余りにも『母と子』の映画になりすぎています。父親の不在を当然のものとして描きすぎているんです。

もちろん、父親が描かれない理由も理解はできます。
妊娠した時点で彼女を放り出した男たちには、「我が子」への執着は感じません。
当然、子供も「自分を産んでくれた母親」は気にはなっても、自分を放り出しただけの父親には恩義を感じようもないでしょう。

ただ、まるで「母が我が子を養子に出したせいで、母も子も不幸になった」とでも言いたげな描き方、まるで子を捨てた母親を責めているかのような空気、これが気になるんです。

もちろん、自らの行為で妊娠したのだし、彼女たちにも責任はあったのでしょう。自分のおなかで育った子供に対し、思い入れが強くなると考えるのも当然です。
しかし責められるべきは彼女たちではなく、責任を放棄した父親ではないでしょうか。

母親たちは皆、ぎりぎりの瞬間まで悩み、過酷な決断に耐えてきました。
一方、この映画でも父親たちは一様に、ほとんど描かれないか、非常に無責任な人物として描かれています。

しかしその“クズさ”の描き方はあまりに軽い。
「ひどい男だよねー」「男ってクズだよねー」の一言で片づけられそうな軽さです。
そこには何の苦悩もない。
重荷を背負うべきは彼らであるべきなのに。

問題なのは「我が子を手放した母親」ではなく、「手放さざるをえない境遇に追い込んだ父親」です。
しかしこの映画にはその視点がありません。

たとえ我が子を捨てたとしても、母親にだけ全ての重荷を背負わせるのは、間違っています。

…もちろん、現実問題として、男は無責任です。
しかしそれを男性監督が「当然」として描いてしまうのは、あまりに身勝手ではないでしょうか?

監督の“理想の母親像”

そして最後に指摘したいのは、ロドリゴ・ガルシア監督が(あるいは多くの男性が)持っている“理想の母親像”の身勝手さです。
これを語るために二つのエピソードをあげたいと思います。

ひとつは、母子へのリスクにも関わらず、女性弁護士が自然分娩を選択したこと。
もうひとつは、養子をもらった黒人女性ルーシー(ケリー・ワシントン)と、その母親の会話です。

自然分娩への信仰

弁護士が自然分娩を選択したことについて、僕ははっきりと間違っていると答えたいです。
なぜ監督は脚本を書くとき、彼女に安全な帝王切開や無痛分娩を選ばせなかったのか?

よく「自分がおなかを痛めて産んだ子だからこそかわいい」と聞きます。
はっきり言います。これって迷信です。

うちには3人の子供がいますが、そのうち一人は自然分娩ではありません。でも、その子が可愛くないなんてことはまるでありません。妻は全く分け隔てなく、3人みんなにとびきりの愛情を注いでいます。

…おそらく、「自分がおなかを痛めて産んだ子だからこそかわいい」とは「よその子よりやっぱり自分の子がかわいい」くらいの意味で使われていた表現なんだと思います。なにしろ当時は子供を産むにはお腹を痛めるしかありませんでしたからね。

(あるいは過去に過酷な出産を経験された女性が、実体験として『お腹を痛めて産んだ我が子はかわいい』=『我が子はかわいい』と語っているかもしれません)

ところが、技術の進歩で帝王切開や無痛分娩が登場してくると、いつのまにか「自分がおなかを痛めて産んだ子だからこそかわいい」だけが一人歩きしてしまい、“お腹を痛める産み方(自然分娩)こそ神聖なもの”と勘違いする人が続出したのです。

映画の話に戻りますが、ロドリゴ・ガルシア監督が弁護士に自然分娩を選ばせたのは、彼の“お腹を痛める産み方(自然分娩)こそ神聖なもの”との思いこみのためです。
何度でも言いますが、出産の痛みやリスクに意義などありません。幻想です。もちろん個人が選択するのは自由ですが、母子のリスクと引き替えにするのは馬鹿げています。

監督は、映画で安全な出産方法を提示しておきながら、あえて弁護士にリスクのある自然分娩を選ばせていました。しかも、あたかも美しい選択であるかのように。

母親の苦痛を美徳として描く感覚は、女性への苦痛の押し売りではないでしょうか。

苦痛こそ母親の条件?

里親となった黒人女性ルーシーが、慣れない新生児育児にノイローゼとなったシーンです。
それに対する母親のセリフを書き出してみました。

呆れた人ね

赤ん坊を育てるのはあなたが世界初?

子育てをなんだと思ってた?

泣き言を言うんじゃない

大人になってしっかりしなさい
母親になるのよ

どうでしょうか?
一見感動的なシーンのようだし、たぶん監督も『ここで感動させてやるぜ!』って力を入れて書いたシーンだと思います。
でも、妻や僕は、大きく違和感を感じてしまいました。

実際育児を経験して思います。
実の子であっても、子供が絶えず泣き続ける環境はストレスを感じて当たり前だし、あまりにつらくて投げ出したくなるのは当然です。それは自分の子を産んだ妻でも同様でした。

彼女の母親がかけるべきだった台詞は「つらそうだから今夜は代わってあげるわよ、少し休むといいわ」ではないでしょうか?
そうでなくても「大変だけど、あと2ヶ月たったらちゃんと楽になるのよ」とか「父親がいないと2倍大変よね、あなたはがんばっているわ」というねぎらいの言葉ではないでしょうか?

しかしここで発したのは、まさかの彼女に対する批判。
ここにも監督の「母親は苦しむのが当然」「それを乗り越えてこそ母親」との、自分勝手な理想の母親観が如実に現れていました。

もちろん、赤ちゃんがお腹をすかせているのなら、母乳を与える必要がありますから、結局母親が対応しなければならないのは理解できるんですが…。

でも、この子、養子ですよね?
養母の彼女は、母乳出ませんよね?

それなのになぜ「あなたが一人で面倒をみなければいけない」などと描いたのか、理解に苦しみます。

おそらくこの監督は彼女に夫がいたところで、「母親が対応しなければいけない」「だからこそ美しい!」と描いたことでしょう。
これこそ女性への自分勝手な神聖視であり、男性の責任放棄なんです。

個人的な経験から言うと、育児には粉ミルクも併用することを勧めます。「母親しか授乳できないのだから、夜間は母親が全て面倒をみるべき!」という事態を回避するためです。
なお、ルーシー役のケリー・ワシントンは撮影時点で未婚。その後結婚し、二人の子供を出産されています。この台詞をどう感じたか、改めて聞いてみたい気もします。

まとめ

美しく描けば描くほど、監督の前時代的な「母親観」が際だってしまう映画でした。

母親への尊敬の念は決して悪いものではありません。彼はきっと素晴らしい母親に育てられたのでしょう。
でも、それを「母なんだからこうあるべき」と周りに押しつけるのは話が違うんじゃないでしょうか。

これらの違和感が影響したのか、この映画は制作費700万ドルに対し、興行収入は480万ドルと大きく失敗しました。

そういえば『おおかみこどもの雨と雪』だとか『わたしおかあさんだから』も一緒ですね。あれらは一言で言えば「ぼくの かんがえた さいきょうの おかあさん」でした(笑)

まったく。マザコンばっかりです。

スポンサーリンク
レクタングル大
レクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする



スポンサーリンク
レクタングル大

コメント

  1. 通りすがり より:

    ちょうど昨日この映画を見たので、検索をかけてたどり着きました。

    ちょっとブログ主様が誤解してるかな?と思う点があります。

    まず、帝王切開したくないとエリザベスは言いましたが、
    結局、緊急帝王切開になっていました。
    だから、麻酔かけて意識を飛ばさないで、と彼女はドクターに
    言っています。生まれたらすぐに顔を見たいから、と。
    そしてもともとハイリスクだったために・・といった展開。
    だから頭にシャワーキャップみたいのをかぶってたわけです。
    自然分娩だとかぶりません。(養子の母親の出産ではかぶってないですよね)
    監督が、というより、多くの女性はできれば自然分娩を希望しますよね、
    リスクがあれば仕方ないけれど、まあたいていは・・・。
    映画でははっきりと帝王切開だ!とは言ってはいませんが
    ここはブログ主様の誤解かと。
    アメリカでは、患者の意思がかなり尊重されますし
    ドクターが無理にでも帝王切開しろとは言いづらいという背景もあります。
    ただし緊急の場合はどの母親でも子の安全を選ぶのはどこも一緒ですから
    結局は帝王切開になってたわけですね。

    北米では自然分娩した人でも
    母乳育児を選ばない人は結構います。
    私もカナダ在住なんですが
    私の周りでも産む前から私はフォーミュラ(粉ミルク)で行く!と決めて
    哺乳瓶や粉ミルクの準備をしっかりしている人、
    産んでみてやっぱり母乳辞めた!って人、いろいろいました。
    だからルーシーの母親が彼女をたしなめるシーンも
    母乳が出ないのに・・・ってことではなく
    ルーシーが”可愛くない!泣いてばかり、食べてばかり!”と言って
    いるからだけだと思います。
    いろんな親子がいるから、ねぎらってくれる人もいるだろうし
    厳しくたしなめる人もいるだろうし。
    あと、養子に出すといっておきながら
    産んでからやっぱり渡さないと言うケースもこれもよくあるんです。
    裁判にまでなることもありますから、契約違反で。
    ここらへんは日本との文化の違いを良く理解していないと
    わかりにくいのではないかと思います。

    すみません、老婆心ですがもしかして誤解してらっしゃるかな?と思って
    コメントさせていただきました。

    • hibino-cinema より:

      コメントありがとうございます。

      実は帝王切開だったと言う点、僕の誤解だったのですね。
      シャワーキャップは、たしかに自然分娩だったうちの妻は被っていませんでした!
      観察力が足りずお恥ずかしいかぎりです。

      母親がルーシーをたしなめるシーンに関しては、「いろんな親子がいるから、ねぎらってくれる人もいるだろうし。厳しくたしなめる人もいるだろうし。」という事情も勿論わかりますが、「自分たちがルーシーの立場だったとしたら、あんな厳しい言い方されたら絶対に嫌だな」という意見です。特にこの映画の監督が男だとわかってしまうと「この人は母親の辛さがわかってないんだな」と思ってしまいます。
      ただ、部分部分を冷静に考えれば「そう言う意見もあるよね」とは思います。作品全体に漂う母親の神聖視に辟易してしまって、癇に障ったのかもしれません(笑)

      全く余談ですが、カナダ在住、羨ましいです。。

      • 通りすがり より:

        カナダ在住、羨ましがる要素はどこにもありません(笑)
        異国に住んで思うのは
        だれしも、持たないものを欲しがるという事。
        コレは異国に住まなくても同じかもしれませんが。

        やっぱりどうしても、感じ方は人それぞれとは言っても
        この監督が母親を神聖視しているというのは誤解じゃないかな?と思います。
        私も娘がいますが、
        >「自分たちがルーシーの立場だったとしたら、あんな厳しい言い方されたら絶対に嫌だな」という意見です。特にこの映画の監督が男だとわかってしまうと「この人は母親の辛さがわかってないんだな」と思ってしまいます。
        とのことですが、
        私もひとり娘がいますが。
        私の娘がもし養子をとることになってルーシーと同じことを言ったとしたら、
        私もたぶん厳しいことを言うと思います。だって母親ですから。
        逆に、ブログ主様がより”母親の神聖視”をしておられるのではないかな?と感じました。
        男性の立場では、厳しいことを言われたくないだろうなと思いますが
        母親だったら逆にあえて厳しくするかな・・って私は感じますね。
        母親の辛さは、つらさと言っても喜びとが五分五分なんですよ。
        どんな形にせよ、子どもをいだくことができたんですから。
        そしてこの後も、子を持った以上、ずっと続いていくいろいろなこともあるってこと。
        それをルーシーの母親はつたえたかったんじゃないかな。
        映画のテーマ自体が母親と娘ですから、それが漂っているのはもちろんですが
        母親を華美に神聖視している印象は私はどうしても持てませんでした。

        • hibino-cinema より:

          通りすがりさん
          コメントありがとうございます。「娘を持つ母親の視点」はとても参考になります、ありがとうございます。立場が変わるとあのシーンの意味合いも変わってきますね。どうしても自分と妻は子育て真っ最中なせいで、「子育てのつらさ」「外野や身内から意見(だけ)を言われることへの苛立ち」を強く感じ、あの母親の厳しい言葉のシーンに反感を抱いてしまったのでしょうか。また、お母さんがルーシーの負担をフォローしているシーンもありませんでした。それを描かずに厳しい指摘のシーンを描くところに、監督の母親に対する「神聖視=母親はこうあるべき観」を感じてしまったのです。