映画を観ていない人が読んでも大丈夫なように、ネタバレに注意しながら説明してします。
「いじめ」あるいは「虐待」問題解決への手がかりとして、目を通してもらえたらと思います。
僕には「いじめ」問題の映画に思えた
主人公の黒人少年シャロンはいじめにあっていた。
彼が住んでいるのはアメリカの低所得者層が暮らす粗野な地域らしい。彼へのいじめは、日本の小学校で問題となっているような「仲間外れ」といった陰湿なものではなかった。もっともっと直接的な、侮辱の言葉と暴力だった。
この映画の中にはいろんな「生きづらさ」が描かれています。黒人の貧困問題、性的マイノリティ、育児放棄と承認欲求、そしていじめ。様々な角度からアメリカが抱える問題を描き出した、価値のある映画といえます。
その中でも、きっと僕自身いじめにあった経験があるからでしょう、「いじめ」の問題が気になって仕方ありませんでした。映画の間中、ずっとそのことを考えていました。
もっとも、僕が経験したいじめは、世間で問題になるようなひどいものではなかったですが。いじめと呼んでいいレベルかどうかすら微妙かも。
仲のいい友達だっていたし、毎日嫌な目にあうわけじゃないし。
…それでもやっぱり、あの当時は傷ついてましたね。
何で自分は弱いんだろう?何でこんな奴の言うことを聞かなきゃいけないんだろう?って。
だからかな、この映画のいじめの部分、シャロンのつらさはすごく胸にきました。
いじめられている子には、大人のあなたこそ友達に
麻薬ディーラー・フアンとの偶然の出会いは、シャロン少年には幸運だった。
その街で麻薬を捌く売人のフアンは、決して善人ではなかっただろうが、少なくとも彼は面倒見が良く、シャロンの気持ちを大切に扱っていた。シャロンは学校でもいじめられていた。家に帰っても育児放棄されていた。彼には居場所がなかった。
そんな中、フアンは戸惑いながらも少年に寄り添い、またシャロンも次第に心を開いていった。
彼のような優しい大人との出会いって、本当に大切です。
それは「視野を広げる」ってことなんです。
「学校」と「家」という閉じた世界を往復する子供は、それ以外の世界を知りません。いつの間にかどんどん視野が狭くなってしまいます。目の前のつらさが世界の全てだと思って、悲観して押し潰されてしまうのです。
世界はもっともっと広いのに。楽しいことにあふれているのに。
だから、子供には「学校」とも「家」とも関係のない、違う年代の人間と関わる機会が効果的なんです。
その大人が「いじめ」や「虐待」から子供を救えるとは限りません。
あれだけ力があり、人情があったフアンですら彼を完全に救いだせたわけではないですしね…。自分であっても彼であっても、いじめから救うなんてなかなか出来ることじゃないんです。
それでも「責任がとれない」なんて思わず、友達になってあげてほしい。
あなた全てを助けてあげられなくたって、「なんだ、学校や家以外にも違う世界もあるじゃん」と気づかせてあげられるだけでも、すごく意味があるんですよ。
閉じた世界で苦しんでる子供にとって、未来に『可能性』を感じられるかどうかは、とっても大きな差なんです。
いじめが「教育水準」に比例することを忘れてはいけない
成長したシャロンは思春期を迎えていた。
おそらく彼は、自分の性的指向が周りと違うことに薄々気づいていた。
だが、カミングアウトなんてとうてい考えられなかったろう。彼は相変わらずひどいいじめに遭っていた。カミングアウトが軽蔑と中傷の材料となることは火を見るより明らかだった。彼にとってケヴィンはたった一人の友人だった。幼い日からシャロンを常に支えてくれていた、心優しい奴だ。シャロンはケヴィンに対して常に信頼と友情を感じていた。
だがいつからか、シャロンは彼に“それ以上の感情”を抱きつつあった…。
そう、シャロンは性的マイノリティだったんですね。
性的マイノリティの生きづらさ、カミングアウトへのハードルの高さは今更語るまでもないでしょう。
以前レズビアンの女性と話しを聞く機会がありました。
どれだけ信頼できる相手でもカミングアウトは躊躇してしまうことや、カミングアウトした友人に「男の子を好きにならないなんてもったいないよ」なんて親切心からきた理解のないセリフに傷ついたり、というエピソードを聞かせてもらいました。
恥ずかしい話ですが、大学に入るくらいまでは僕自身も性的マイノリティに対して「なんとなく」偏見がありました。
正直、「変な人だな」って思ってたんですよね。それでも、いろんな映画作品や新聞記事なんかを通じて見聞を広めることで、次第に「そういう人もいるんだ」と実感できるようにはなってきました。
でも、おそらくレズビアンの知人と話をする機会がなかったら、誤解した部分もあったままだったと思います。
シャロンのような、性的マイノリティの少年少女達の悲劇は、周りの同級生の見聞の狭さ、理解のなさにあります。
子供を育てていると、時折彼らの残酷な言葉を耳にすることがあります。
以前町中で車椅子に乗っている方に出会ったときや、体や顔の一部が変形している方に出会ったとき。子供が僕に「あのひと ヘンだね~」と言ってきました。
我が子を心優しい子だと思っていたので、少しショックでした。
(もちろんその後、人と違うからって「ヘン」という言葉を使ってはいけないと諭しましたが…)
誤解を生む表現ですが、子供は同性愛者を本能的に「変だ」と感じてしまいます。子供は本能的に、「みんなと違うこと」を「ヘンなこと」ととらえてしまうんです。
学校と家とテレビぐらいしか世界がない彼らにとって、男は女を愛するのが当たり前で、女は男を愛するのが当たり前ですからね。
そして悲しいことに、イレギュラーな存在というだけで「笑い」と「みくだし」のニュアンスをもってみてしまうんです。
いや、大人でも、本能的にはきっとそうなんです。
でも僕らは「それはいけないことだ」と知っています。
そこに大切な鍵があるんです。
「相手が傷つくから」
「そういう人間も当たり前にいるのだから」
「そもそも違いがあるからって差別してはいけない」
「いじめは悪いことだ」
そんな当たり前のことを、なぜ大人は知っていて、子供は知らないのか?
それが「教育」と「経験」の差なんです。
今までの人生で学び取ってきた知識があるから、間違った行動をしないんですね。
基本的に「経験」については意図的にコントロールができません。
小さい頃であれば、親が目的意識を持ってそういう機会を持たせることもできますが、それもある意味「教育」の一環でしょう。
だから、いじめや差別を無くすためには「教育」が大切なんです。
偶然に左右されず、相手に伝えたい経験値を的確に届けることが出来ます。
ちょっと遠回しなたとえ話ですが、都道府県の話をします。
あなたは都道府県を、いくつぐらい正しく言えますか?
まあ、誰でも30個くらいはポンポン出てくるはずです。
その中で「経験的にこういう県があると知っている」と言えるのはいくつぐらいでしょう?おそらく半分にも満たないはずです。
「経験」的に日本の都道府県の数を覚える人が少ないように、ほとんどの人は「教育」によって知識を得ています。
その知識を「経験」によって再確認することで、さらに確固とした知識を確立していくわけです。
いじめに関しても本質的には同じだと考えています。
“なぜいじめがいけないのか”学ぶ機会を、その子の「経験」だけに頼るのは余りに危ういことなんです。
「教育だけじゃいじめを無くせない!」
「今でも頑張って教育しているのに、いじめは無くならないじゃないか。」
そんな声ももちろん正しいです。
残念ながら、いくら教育したっていじめの根絶は不可能でしょう。
だからといって「教育」をおろそかにすることは決して許されません。
「教育」という土台があって初めて「経験」も実を結ぶのです。
そして、「日本では一生懸命教育してるからこれだけで済んでいる」という側面を忘れてはいけません。
シャロンが暮らす貧困地区を思い出してみてください。
ああいう経済水準が低い地区では、教育水準が低くなります。生活に余裕がなければ、当然教育にかけられるお金も小さくなっていきます。
そして、そういう場合にまず真っ先に削られるのが「道徳」です。
わずかな教員しか雇えず、学科の授業を教えるのが精一杯であれば、まず優先されるのは進学・就職に役に立つ学業です。どうしても情操教育は後回しにされてしまいます。
大人たちも、経済的な不安定、未来に希望がもてないことから享楽主義に走り、子供の情操教育に気を使う余裕や風潮がありません…。(もちろん一般的な傾向ですが…)
そういう地域ではえてして「いじめ」が深刻化するんです。
僕も以前、海外の発展途上の地域を旅していて、障害者を嘲笑したり邪険に扱う住民をみてびっくりしたことがあります。
「都会のほうが人間が冷たい」となぜか信じていた僕には衝撃的なシーンでした。
教育によって、いじめがいかに悲しいことかを伝えること、なにがいじめかを伝えることは本当に重要なんです。
いじめ教育をしていたのにいじめが起こったからと言って、教育を無力だと誤解してはいけません。
教育こそが、すべてのベースなんです。
***
さて、ここから映画は劇的な展開を迎えます。
ケヴィンへのほのかな思いがどのような結末を迎えるのか?
エスカレートしていくいじめはどうなってしまうのか?
ついにある強烈な事件がおこり“第二章”は幕を閉じます。
この映画、「少年編」「青年編」「成人編」の三章に別れているんですね。
少年編、青年編ではシャロンの印象はほとんど変わりません。体が成長したものの、相変わらずいじめられていて、ほとんど地続きなのに比べ、成人編は異色です。
シャロンは「え、そっち!?」と言いたくなる、意外な方向へと成長を遂げていたのです…。
いじめられている子にかけるべき言葉とは。
成人したシャロンはすっかり様変わりしており、昔の面影を残していなかった。アンダーグラウンドな仕事ながら一定の地位を築いており、過去のいじめが嘘のようだ。
ある日シャロンのもとに一本の電話が鳴る。
それは、“あの日”以来ずっと会っていなかったケヴィンからの電話だった。二人は久しぶりに言葉を交わし、旧交を温めた。
ケヴィンはレストランで働いているという。
「お前にうまい飯を食わせてやるよ」
シャロンは、彼の店を訪ねることにする…。
この驚きの第三章は出来れば映画で観ていただけたらと思いますが、ネタバレしない程度に説明すると、シャロンがとても強い存在になっていた、ということです。
彼はとてもとても強くなっていました。
経済的にも多くのものを手に入れていました。
しかし相変わらず寡黙なシャロンがぽつりと自分の気持ちを告げるのを聞いたとき、彼の切ない内面が見えた気がしました。
経済的な成功にもかかわらず、きっと彼の心は満たされないままだったのではないでしょうか。
第三章が始まったときはシャロンのあまりに成長した姿に愕然としましたが、むしろ彼の心は“あの時”のまま成長を止めていたのかもしれないと思えてきます。
彼が抱いていた「哀しみ」にはいくつもの要因が折り重なっています。
性的マイノリティゆえの苦悩、アンダーグラウンドでしか生きていけないことへの自虐、幼き日のトラウマ…。
シャロンはアメリカ社会が抱える問題を一身に背負ったかのような存在だったのかもしれません。
そんな彼が抱えた圧倒的な満たされなさとは、突き詰めて考えると、「愛されたかった」ことだと思います。
親に、クラスメートに、恋した相手に、自分という存在を認めてほしかった。
ずっとシャロンは「承認欲求」を満たされないまま、孤独な存在として生きてきたのです。
彼はずっと、あのラストシーンを求めていたのかもしれません。
この物語は「いじめ」だけの物語ではありません。
でも、根っこの所は同じ問題です。
「愛されたい」という思いを抱えた少年の話なんです。
いじめられている子の「救済」とはなんでしょうか。
もちろんいじめを止めさせるか、あるいはそこから逃がすかして、その子が心穏やかに暮らせることになると思います。
でも、それだけじゃダメなんです。
その子が求めているのは、自分が愛されているという実感なんです。
もしもあなたの周りにいじめられている子がいたとしたら。
彼に愛されているという実感を与えてあげてほしいんです。
もちろん僕たち周りの人間は、その子のクラスメートになってあげることはできません。家族にもなってあげられないし、恋人にもなれないでしょう。
でも、友達になってあげることは出来るんじゃないでしょうか。
一緒にミスタードーナツに行ってくだらないおしゃべりすることが出来るし、部屋で対戦ゲームして遊ぶことだって出来ます。
映画に誘うことだって、ラーメンを食べに行くことだって、愚痴を言い合うことだって出来るんです。
「君と一緒にいると楽しいよ」
「僕の大事な友達だよ」
「またいつでも遊ぼうよ」
そんな気持ちが伝われば、その子がどれだけ救われるか!
だからもしもいじめられた子がいたら、とにかくまずは、こんな言葉をかけてあげてください。
「遊びに行こうよ!」って。
この文章が誰かのきっかけになれば、幸いです。
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