イーストウッドを語るのに『許されざる者』が欠かせない理由

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許されざる者_オリジナル

僕が敬愛してやまない映画監督クリント・イーストウッド師匠!この『許されざる者』は彼の監督としての転換点であり、彼を語るときに欠かせない作品ではないでしょうか。

この映画は、彼の「決意表明」であり「決別の挨拶」なのです!

『許されざる者』とは誰のことか。

まず、タイトルについて考えてみましょう。

許されざる者とは誰のことでしょうか。

真っ先に思いつくのは、クリント・イーストウッド演じる主人公です。(何回観ても主人公の名前が頭に残らないので、この記事ではクリント・イーストウッドで話を進めます)

過去に大量殺人を犯しており、その罪の意識に今なお苦しんでいます。
いくら素敵な奥さんが許しを与えてくれたとしても、死んだ人間が帰ってくるわけではありません。
彼が執拗に「俺は真人間に戻った」と主張するのは自分の罪の意識の裏返しでしょう。

事実、熱にうなされながら「昔自分が殺した人間が見えるんだ」と泣き言を言ったり、ふと自分が殺してしまった無実の人間のことを思い出したり、彼は自分の犯した罪の重さに苦しんでいるようでした。

もう一人、この映画での敵役に位置し、クリント・イーストウッドと対となる存在として描かれていた保安官。彼もまた『許されざる者』ではないでしょうか

一見すると、彼は住人の生活を守るために働いている正義の味方のようにもみえます。穏やかな笑顔で、趣味の大工のエピソードも微笑ましくて、最初は良いおっちゃんだと思ってました。
しかし次第に、彼の「正義のためなら何をしても許される」という極端な姿勢と、流れ者に対する過度な攻撃性が気になってきます。

賞金首を殺すのに悩み抜き、心を痛めていたクリント・イーストウッド。それに対して、ネッドをなぶり殺し、さらし者にしておきながら笑っていました。

人を殺して何とも思わない人間の方が、よっぽど悪ではないでしょうか?
そういえばうちの嫁も、キッドが殺人を犯した後、動揺して泣き崩れるのを観て「かわいい」と形容していました。これだから女は…

ていうかこの映画、考えてみると、悪人だらけですよね。

モーガン・フリーマン演じるネッドも、過去にクリント・イーストウッドと共に殺人を犯したことが示唆されていますし、キッドも賞金首を射殺しています。

その賞金首は罪のない娼婦をナイフで切りつけていたし、娼婦達も、自ら手を下していないだけで殺人を依頼しています。

あ、イングリッシュボブとかもいましたね。あれも悪い奴ですね(←忘れてた)

登場人物揃いも揃って、「許されざる者」だらけなんです。

(ちなみに、1000ドルで殺人を依頼した年長の娼婦は、翌年クリント・イーストウッドとの間に子供をもうけていて、別の意味で許されざる者だったりします。)

早撃ちガンマンの不在

もうひとつ、この映画が「悪人だらけ」だと裏付ける証拠に、「早撃ちガンマン」の不在が挙げられます。
これがどういうことかというと、まず「早撃ち」について説明する必要があるでしょう。

ちょっと昔、僕は西部劇の「早撃ち」がどうも納得できませんでした。(と言っても、僕が観たことある早撃ちシーンはのび太対ギラーミンだけだったりするのですが。)
だって先に抜いた方が絶対有利じゃん?何でわざわざ睨みあって、相手と同時に抜くことに拘るの?美学なの??

答えは、早撃ちは「自分が罪にならずに相手を殺せる方法」だからです。

実は、いくら西部開拓時代であろうと、自分が先に拳銃を抜き、相手を撃ち殺せば、どんな正当な理由があろうと「殺人罪」でした。首尾良く相手を撃ち殺しても、自分が逮捕され、縛り首になってはたまりませんよね。

一方、もしも相手が自分に銃を向けてきたら…?
そのままでは当然撃ち殺されてしまいますから、自分の身を守るために相手を撃っても咎められないのです。

そう、相手が先に抜いた後の「早撃ち」は「正当防衛」なんです。

「抜け!」「この腰抜けが」と挑発したり、今にも撃ち殺すぞとプレッシャーをかけたり、互いに睨みあって焦らしたり、燃えないゴミの日にプラモデルのコレクションを全部捨てたり、あの手この手で相手に先に銃を抜かせさえすれば、正当防衛の口実が手にはいるのです。

そして自分は相手より後に銃を抜き、相手より先に銃を構えてヒットさせる!!

そうすれば、罪に問われることなく、悪を葬り去れる。これこそが西部劇が誇る早撃ちのテクニックなんですねー。

しかし、この映画では早撃ちがひとつも登場しませんでした
遠距離から背中を打ったり、最初から銃を構えて酒場にはいったり、トイレでう●こしてるところを撃ったり。

これがどういう事かというと、うんこ中はさすがに可哀想 彼らは正当防衛の言い訳すらなく、ただただ私欲のために殺人を犯している…彼らに正義がないことを示唆しているのです。

それにしてもなぜこんなに悪人だらけなんでしょう。

西部開拓時代の限界

それは当時の時代背景に関係があります。
アメリカの西部開拓時代、夢を抱いた市民は次々と未開の土地に進出していきました。
しかしなにしろ『未開の土地』ですから、警察も司法機関も役所も何もない荒れ地なわけです。犯罪をとりしまる人もいないし、何かあったとき守ってくれる人もいないわけです。

その上、集まる人間にも問題が多かったです。未開の荒れ地に夢を抱くような人間とは、裏を返せば元の土地で上手くやっていけなかった人間です。
自然と、粗野な人間、ルールに馴染めない人間が多くなりがちです。

誰も守ってくれない、荒くれ者の巣窟。やばい、暮らしたくない。

そんな環境で善良な人々がとった手段は、「銃を持って、自分の身は自分で守ること」と「村のみんなで『保安官』を選出し、その人に権力を預けること」の二つでした。

アメリカが未だ銃社会なのはこの「自衛」思想に起源があります。また、クリント・イーストウッドは銃所持擁護派・共和党の熱心な党員であることで有名です。

保安官を選ぶ際には、おそらく高潔な人格や銃の腕前などを基準にしたのでしょう。
ところが実際には、村の治安を守るための保安官がヤクザばりに暴走することも少なくなかったようです。かの有名なワイアットアープも結構アレだったとか。
保安官を監視する上部機関がない以上、保安官が「最高権力者」のように振る舞ってしまう危険があるわけですね…。

以上のような事情が相まって、西部開拓時代は「悪人だらけ」だったわけです。
犯罪者が堂々と跋扈する無法地帯。正義を行使する保安官すら罪を犯し、誰もが罰せられない悪の巣窟。「跋扈」って、読めるけど書けない。

僕は、この物語で無法地帯の酷さを描くことで、間接的に現代の社会制度を評価したかったんじゃないかとすら思いました。(実際はたぶんそんな意図はなかったでしょうが。)

なぜイーストウッドは西部劇を貶めたのか

それにしても、西部開拓時代を貶めるようなこの映画を作ったのが“西部劇の申し子”クリント・イーストウッドだとは非常に興味深いです。

西部劇に愛され、西部劇を愛した彼が、なぜこのような西部劇へのアンチテーゼ(対立する主張)のような映画を作ったのでしょう。

実は、「西部劇は西部開拓時代のカッコイイ部分だけを描いた、理想化された夢物語だ」とは限らないのです。

もちろん最初にアメリカで持てはやされていたのは、高潔な保安官が悪人をやっつけ、お嬢さんを助け出す勧善懲悪もの。アメリカ人の誇りと憧れとしての西部劇でした。

しかし、若きクリント・イーストウッドを主演に据え大ヒットした『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』といった映画は、趣が少し異なります。

これらの映画では「ルールに縛られない不法者のヒーロー」「悪人と紙一重の正義の味方」という新しいヒーロー像を描き、そのアンチヒーローっぷりが広く支持されたのです。
(ヒーローも結構クズだったりしますが、やっつけられる悪人達はそれに輪をかけてクズなのでバランスは取れていました。)

これら「アンチヒーローとしての西部劇」はイタリア製作の作品であることから『スパゲッティ・ウエスタン』と呼ばれ、日本では淀川長治さんが「スパゲティだと細くて貧弱そう」と『マカロニ・ウエスタン』と呼び始め、定着しました。

イーストウッドはこの『マカロニ・ウエスタン』の看板俳優として、絶大な人気を誇っていました。そう、皆が「イーストウッドはすべて正しい」と言わんばかりに…。

もしかしたら、長年アンチヒーローを演じ続けてきた中で、イーストウッドは自分のヒーロー像や、どこまでいっても「善と悪」に単純化される西部劇に疑問を抱き始めていたのではないでしょうか。

今まで彼が演じてきた男達は許されるのか?

いや、そもそも正義とは、何なのか?

その後彼は映画監督としていくつも名作を残しています。

  • 「グラン・トリノ」
  • 「硫黄島からの手紙」
  • 「父親達の星条旗」
  • 「ミリオンダラー・ベイビー」
  • 「ミスティックリバー」
  • 「パーフェクトワールド」
  • 「アメリカン・スナイパー」

これらの作品で、彼は一貫して「“正義”について悩み、葛藤を抱きながら生きる人々」を描き続けています。彼がいかに正義とは何かを考え続けているかがわかりますね。

そしてまた、彼がこれ以降西部劇をつくっていないことにも気がつきます。

おそらく、善悪が単純化された西部劇では正義のありようを描きようがなく、また混沌とした西部開拓時代を正面から描くと「正義の不在」という問題にぶち当たると悟ったのでしょう。

それが、この最後の西部劇である『許されざる者』の持つ重要さです。

二人の監督に捧げた真意

この映画は、クリント・イーストウッドが自らが師と仰ぐドン・シーゲル、セルジオ・レオーネの二人に捧げられています。
二人とも、イーストウッドと共にマカロニ・ウエスタンの名作を世に送り出してきた名監督でした。

ドン・シーゲルは『真昼の決闘』や、現代を舞台にしたマカロニウエスタンとも言える『ダーティハリー』を、セルジオ・レオーネは『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』を。

二人は、この映画が出来る数年前に相次いで息を引き取りました。

イーストウッドが彼らに捧げたかったのは、感謝と敬意だったのでしょうか。

彼が二人の監督から学んだものは、映画の真髄だけではありません。マカロニ・ウエスタンで描かれたのは新しい形のアンチヒーロー、いわば今までになかった新しい『正義』の形でした。

正義とは何か。

きっとそれこそが、イーストウッドが生涯追い続けるテーマなのでしょう。

この異質な西部劇、最後の西部劇を通じて二人の恩師に捧げたのは、

自分はこれからも『正義』のあり方を問い続けていきますとの「決意表明」

そして、誰よりも愛し愛された『西部劇』との「決別の挨拶」だったのかもしれません。

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