抽象的で、とても難解な映画ですよね。
でも実は、この映画の根底にあるテーマは「敬虔なキリスト教徒が抱える永遠の疑問」だと気づくと、途端に腑に落ちるのです。
ああ、この映画はコレを言いたかったのか!と。
とはいっても、いきなりキリスト教だなんだといわれても、ピンとこないですよね。
むしろ、次から次へと疑問が沸いてきます(笑)
長尺の謎映像はなんだったのか?
何でこんな映画が賞をとってるのか?
そもそも何を言いたい映画だったのか???
では、ひとつずつ説明していきたいと思います。
映画のテーマ
まず、この映画のテーマを理解しておきましょう。
「敬虔なキリスト教徒の永遠の疑問」とは一体なんでしょうか?
それは“神様って本当にいるんだろうか?”です。
冒頭の旧約聖書ヨブ記からの引用を覚えていますか?
私が大地を据えたとき おまえは一体どこにいたのか
この文章だけだと一体何を言いたいのか意味不明なんですよね…(^^;
でも、この一節がわかるかどうかが結構重要で、
敬虔なキリスト教徒にとっては、このヨブ記からの引用がでた時点でピンとくるのです。
「ヨブ記からの一節!!なるほど、この映画は“神への懐疑”がテーマなのか…!」
という感じです。
いったいヨブ記はどんな話なのか、映画にとって重要なので、ごく簡単にみてみましょう。
昔々ある所に、ヨブというとても敬虔な信者がいました。
しかしある時、ヨブは盗賊や災害で財産を失い、全身にブツブツがでる病気まで患い、子供まで亡くしてしまいます。
ヨブは絶望と憎悪に飲まれ、ついには神の存在を疑い出します。
「俺は今までこんなに熱心に祈ってきたのに、神は助けてくれなかった!俺は神に抗議したい!」
すると、ヨブの前に神が降り立ったのです。
神は怒れるヨブにピシャリと告げます。
神「私が天地創世で大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか」
ヨブ「え…?」
神は、「神自身がずっと世界の中心を担ってきた」ことをヨブに指摘したのです。
私は大地を築き、地上に雨が降り注がせ、悪人に裁きを下し、星々の軌道を調整してきたのだと。
ヨブは気づきます。
神は世界の中心を担ってきた偉大な存在でした。
そんな神にヨブが祈っていたのは、自分自身の利益だけ。
ヨブの怒りは「信仰してきたのに自分の思い通りにならない」という身勝手なものだったのです。
ヨブは過ちを認め、悔い改めます。
その後ヨブは裕福になり、たくさんの子供に恵まれたということです。めでたしめでたし。
※非常にざっくりとしたまとめです。もっと詳しく知りたい方はこちらのサイトがわかりやすかったです。
どうでしょうか。
以上のような「ヨブ記」のストーリーを理解していれば、冒頭の神様の決めゼリフ「私が大地を据えた時…」の意義もわかりますね。
この一節だけで、映画のテーマは「神への懐疑」だと説明できちゃうんです。
そういえば映画の中でも、主人公ジャックやお母さんが神に「どこにいるのですか」と語りかけるシーンがありましたしね。
一方で、キリスト教圏でない日本人にはチンプンカンプン。
ただでさえ難解な作風と相まって、意味不明になってしまったんですね~。
※なお、映画の主人公の名前はJack O’Brien。大文字を繋げると“JOB(ヨブ)”になります。
一神教ゆえの悩み
それにしても、「神が本当にいるかどうかが、なんでそんな重要問題なの?」って思いませんか?
実はこれにも、基本的に多神教である日本人には感覚的に理解しづらい事情があるのです。
(映画の話題に入る前に脱線ばかりで恐縮ですが、理解を深めるためのステップなのです。あと少しお付き合いください…)
仏教や神道は複数の神様が存在する“多神教”で、
キリスト教は一人の神様しかいない“一神教”というのは聞いたことがあるかもしれません。
ただこれは、『神様が一人か複数か』という単純な話ではないのです。
実はキリスト教には、
「神様は唯一の神ヤハウェのみ。
だから他の宗教の神様を信じないのはもちろん、
霊的現象や、超自然的な奇跡や、呪術のたぐいも、
一切信じてはいけない!!」
という強烈な決まりがあるのです。
つまり「唯一神以外は絶対に認めない」のです。
ここが多神教の感覚と大きく違います。
それどころか「超自然的なもの」「霊的なもの」「人間の力をこえたもの」を信じたら罰すら受けなければなりません。
具体的には
「お地蔵様にお供えする」、
「おみくじを引く」、
「夢枕にたったおじいちゃんの言うことを聞く」、
「村の守り神である神様を祭る」、
「山の主を鎮めるためにお供えをする」
この辺りも全部、(厳密に言えば)アウトです。
有名なモーセの『十戒』でもそうですね。
最初の第一条は「汝姦淫するなかれ」でも「汝殺すなかれ」でもありません。
第一条は「私以外を神と思ってはいけない」なのです。
一方で日本人は、いろんな“超自然的な存在”を信じますよね。
村の豊作は村の守り神や天候の神様に祈りますし、
安産に強い神様、受験に強い神様、縁結びに強い神様にも参ります。
お地蔵様には、旅の安全や子供の健康を祈ります。
神様でなくても、動物や人を殺すと悪霊によって「たたりがある」と思っているし、
ご先祖様の霊が自分の身の安全を加護してくれるともよく聞きますし、
果ては、山の“ぬし”やただの妖怪ですら超自然的な力を持つと信じています。
日本人は「超自然的な存在はいろいろある」と思っているし、
また、無意識のうちに「彼らにもそれぞれ得意不得意があるし、能力の限界だってあるよね」という理解をしているのです。
ここがポイントです。
対して、キリスト教の信じるのは唯一神ヤハウェだけ。
他は一切認めません。
そのかわり、唯一神ヤハウェは全知全能で、完璧で、疑いようのない存在です。
オンリーワンでパーフェクト!
信じるときに、これほど頼りになる存在はありませんね。
だからキリスト教徒は、
唯一の神ヤハウェのために苦難に耐え、
唯一の神ヤハウェのために善行を重ね、
唯一の神ヤハウェのために教会に寄付をし、
唯一の神ヤハウェに祈り続けるのです。
しかしその反面、キリスト教徒にとって「唯一神ヤハウェを信じられなくなる」のはとてもとても重大な問題です。
今までずっとヤハウェがいることを前提に、道徳心・勤労・自律を高めてきたのです。
今まで神が自分を救ってくれると信じていたからこそ、
苦難に耐え、善行を重ね、犠牲を払ってきたのです。
それなのに、実は自分を救ってくれないとしたら?
いや、そもそも、本当は唯一神ヤハウェなんて存在しないとしたら…?
おわかりでしょうか。
キリスト教徒において「神の存在を疑う」という問題は、
日本人の考える「ここの神社はご利益が薄いなぁ!」という認識とはまるで次元が違うのです。
オンリーワンでパーフェクトな救いの神だと信じていたからこそ、裏切られた時のショックが大きいのかもしれません。
この映画に出演するブラッド・ピットもインタビューで、神を信じきれず、しかし捨てきれなかった、複雑な胸の内をあかしています
こういう、キリスト教徒の肌感覚というか、暗黙の了解が理解できていないと、
この映画のテーマは腑に落ちないかもしれません。
しかし逆に言えば、そこさえ理解できていれば、監督の言いたいことがわかってくるのです。
・この映画は「神への懐疑」がテーマ
・「神への懐疑」はキリスト教徒にとって重大な問題
さて、以上二つの前提を踏まえて映画をもう一度おさらいしてみましょう
映画のおさらい
(映画冒頭)
1960年代:次男R.L.の突然の死の知らせ
↓
2000年代:大人になっても苦悩するジャック
↓
(物語の大半)
1950年代:横暴な父親に苦しめられた子供時代のジャック
↓
(映画終盤)
2000年代:大人になったジャックが辿り着いた砂浜シーンの幻想
映画の流れこんなかんじですね。
では、物語の時間の流れにそって、詳しく追っていきます
*********
子供時代のジャックは、信心深く優しい母親に育てられました。
母親の影響でジャック自身も信心深い子供だったのがポイントです。
一方で、独断的で厳格すぎる父親に苦しんでもいました。
端的に言えば“僕は幸せじゃない”と感じていたのです。
そこへさらに、一緒に遊んでいた友人がプールで溺死し、もう1人の家が火災で燃えてしまうというトラウマ事件2連発を経験します。
ここで彼の心に、神様に対する疑念が芽生えます。
いったい神様は何をしているの?
溺死した友達は信仰心足りなかったの?
どうして不幸な僕を救ってくれないの?
ちゃんと僕たちを観てくれているの?
それとも、もしかして神様は本当は存在しないの…?
親子関係のストレスや信仰心の揺らぎからか、彼は非行に走り始めます。
ジャックが少年仲間にそそのかされ破壊行為や動物虐待を犯してしまいました。
隣人の家に侵入し、彼女のネグリジェを盗むことすらしてしまいます。
少年ジャックの青ざめた不安の顔が印象的でした。
きっと彼はどこかで神罰をおそれていたのでしょう。
しかし神は彼を罰する様子はありません…。
このまま非行の道を突き進んでもおかしくはなかったのですが、
幸いにも職を失った父親が自らの非を認めたことで、
ジャックと父親は奇跡的に関係を修復します。
その後の詳しい描写はありませんが、
おそらくジャックは非行をやめ、徐々に更正していったのでしょう。
そして、「神の存在への懐疑」はいったん忘れていたのではないでしょうか。
ところが10年ほど後、あのかわいい次男R.Lが死んでしまいました。
死因は明らかにされていませんが、
「死亡が確定した状況で初めて手紙だけが来る」という異常さから考えると
戦死か突然死、あるいは自殺…と考えてしまいます。
実はこの弟君のエピソードにはモデルがあるといわれています。
テレンス・マリック監督の実の弟ラリーです。
ラリーは音楽の道を志し、クラシックギターの巨匠セゴビアに教えを請うべく留学しました。
しかし彼は伸び悩みに苦しんだのです。
自らの両手の指を折り、最後には自ら命を絶つという大変痛ましい結末を迎えてしまったのです…。
テレンス・マリック監督の心痛はどれほどだったことでしょう。
この映画の主人公には、監督自身の苦しみが投影されていたに違いありません。
主人公ジャックの胸の内に、幼き日に抱いた神への疑念が再び浮上します。
私は本当に神を信じていいのか。
あの善良な弟を、神はなぜ救わなかったのか…!
まるでヨブ記のヨブのようですね。
歳月が流れ、
ジャックは社会的な成功を手にしていました。
ガラス張りの高層ビルで、立派な仕事をしています。
しかし、彼の表情に満ち足りたものは感じられません。
不条理な弟の死。
神への疑念。
心から信じられるものの不在。
彼は救いを求めながら、神を信じられないという矛盾に陥っていたのかもしれません。
そして映画は精神の救済である浜辺のシーンへと続いていくのですが…
ここでいったん解説を入れたいと思います。
度々入ってくる宇宙やマグマや恐竜や大自然などの幻想的な映像は、いったいなんだったのでしょう?
壮大で自然の美しさが示すもの
実は、テレンス・マリック監督の作品に共通する特徴として、“壮大で手つかずな自然の美しさ”がひとつのテーマとして挙げられます。
なぜ彼は、壮大な自然を特別視しているのでしょうか?
彼自身が言及したことはありませんが、
実の弟ラリーの死に打ちのめされたテレンス・マリックは
神の存在を信じられなくなり、悩んでいたはずです。
この世に救いはあるのか?
そもそも神は本当にいるのか?
※テレンス・マリックは2019年にはイエス・キリストの生涯を描いた映画の制作を開始したと発表しており、キリスト教に強い関心を持っていると考えられます。
しかしある時、壮大な自然に触れた瞬間、彼は“何か”を感じとったのです。
もっと具体的にいうと、“理屈を越えた癒しと、人間の遠く及ばない偉大さ”です。
みなさんも体感的に「自然は癒し」と理解しているかと思いますが
なぜか自然には心を癒す効果があることは心理学でも立証されています。
おそらく、彼は自らの心が不思議と癒されるのを感じ、
同時に自然の壮大さに偉大さに圧倒されたのでしょう。
理屈を越えた癒しの力をもち、
壮大な神秘性で人を畏怖させる…
これって、何かと似ていませんか?
そう、彼は大自然の中に神の存在を感じとったのです
思えば、これだけ美しい風景をつくったのも、広大な宇宙で生命が生まれた奇跡も、神の御業としか考えられない…
そんなふうに感じたのでしょう。
冒頭のヨブ記を覚えていますか?
大地を据え、世界の成り立ちを司り、星々の動きを統べたのは神の手によるものです。
逆に言えば、それらに目を凝らせば、神の存在を感じられるはずです。
神様の「お前はどこにいたのか」という問いかけは、
主人公の「神様はどこにいるのか」という問いかけと対になっています。
神は、いたのです。
大自然の中に、生命の奇跡の中に、世界の成り立ちの中にいたのです。
あまりにも壮大で、個人の小さな視界では捉えられないかもしれません。
しかし神は確かに存在していたのです。
あの幻想的な映像の数々は、「神様はどこにいるのか」という問いかけへの答えだったのです。
ラストシーンが示すもの
では最後のシーンの解説に戻ります。
「神様はいるのか」という疑問に答えをみつけた監督は、
もうひとつ「救いがあるのか」という自らの苦悩にも答えをみつけたのです。
最後のシーンに描かれていたのは、主人公ジャックの精神の救済です。
岩場にいたジャック。
出現した扉を開けると、広がっていたのは壮大な宇宙の叙事詩でした。
ふと手を引かれたジャック。
彼の手を引いたのは、無条件に神を信じていた子供の頃の自分でした。
辿り着いた砂浜で出会ったのは、両親や弟。
自分がこれまで出会ってきた人々でした。
これだけではなんのことか分かりづらいですが、
「神はあまりにも壮大で、個人の小さな視界では捉えられない」という先ほどの気づきに基づいて考えてみましょう。
おそらく神様が大切にしているのは
現世での離別や悲劇といった小さな出来事ではありません。
きっと、現世や喜怒哀楽をもっと超越したところで、“救いの手段”を用意しているはずだと。
では、その“救いの手段”とは?
ここでようやくタイトルの“ツリーオブライフ”が関係してくるのです。
タイトル「ツリーオブライフ」とは
旧約聖書によれば、神によって創造されたエデンの園の中央には、二つの樹が植えられていました。
ひとつはアダムとイブが楽園を追い出されるきっかけとなった知恵の樹(tree of knowledge)。
そしてもうひとつが生命の樹(tree of life)です。
知恵の樹はその実を食べると善悪を知る知性が生まれ、
生命の樹の実を食べると永遠の命が得られるそうです。
ところが、知恵の樹の実を食べたアダムとイブは楽園から追放されてしまいます。
知恵の樹と生命の樹、どちらの実も食べたとき、人は神に等しい存在になってしまうからです。
もはや人間は、生命の樹(tree of life)に近づくこともできず、死すべき運命を抱えることになってしまったのです。
しかし、人間にも生命の樹(tree of life)の実を食べる方法が残されていました。
『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」によれば、
“キリストを信じ、迫害のなかにあっても信仰の道を守り通す者には、この樹の実にあずかる特権が与えられる”とされているそうです。
そう、これこそが“救い”なのです。
神への信仰を貫けば“現世の生死”という枠を越えて、永遠の存在になることができる…
弟も、両親も、いつか死ぬ自分も、また会うことが出来るということです。
信仰を貫くことこそが、救済への道だったというわけです。
まとめます。
テレンス・マリック監督がこの映画で伝えたかったことはこの2点です。
“神は、存在する”
大自然や、生命の奇跡や、世界の成り立ちの中に
あまりにも壮大で、個人の小さな視界では捉えられないかもしれません。
しかし神は確かに存在しています。
“信じていれば、救われる”
神への信仰を貫けば、救いは準備されています。
現世の生死を超越した永遠の存在になれるのです。
言葉にするとひどくシンプルな結論ですが、
見えない神様を信じ続けるというのは、時にはとても難しいものなんでしょう。
“神が本当にいるのか”という問題は、多くのキリスト教徒が目をそらし続けてきた宿命のテーマのようなものです。
この映画はそれに正面からぶつかっていったのです。
説得力のある美しい映像でもって神の存在を感じさせ、
現世の果ての救いまで描き出しました。
悩めるキリスト教徒に“神を信じてもいいんだ”と思わせてくれたのです。
これこそこの映画が高く評価されている理由なのです。