映画「ビッグ・リボウスキ」は決して万人受けする映画ではありませんが、根強いカルト的な人気を持つ作品です。
「良さがわからない」という声もあれば、「最高の映画!!」とまで絶賛する人もいます。
この不思議な作品が評価される理由を考察・解説 してみました
ユルさとは何か
多くの人も語っていますが、この映画の特徴は、「ユルさ」にあります。
しかし、「ユルさ」の一言だけではさすがに言葉足らずですよね。
一体どこが「ユルい」のか、
なぜ「ユルい」ことが評価されるのか、
詳しく掘り下げていこうかと思います。
まず、「緩い」を改めて辞書で引くとこうあります
①物の締まり方が足りない
②行動に対する規制が弱い
③水分が多くて堅さが足りない
④速度がゆっくりしている、勢いが弱い
⑤曲がり方や傾斜度が少ない
⑥心の緊張が足りない、だらけている
⑦寛大である、心がゆったりしている
なるほどたしかに、この作品の雰囲気を的確に言い表している単語ですね。
「②行動に対する規制が弱い」が若干掴みにくいですが、「規制が緩い」などの意味合いです。
映画では「こういうシーンではこういう展開になってほしいという観客の期待から自由」と考えてみてください。
たとえばいくつかのシーンをあげます。
身代金の受け渡しのシーンでは、主人公の友人ウォルターが銃を持って車から飛び降りました。
しかし銃を落としてゴロゴロと転がるだけで、犯人は逃走…。
しょーもないというか、映画としてありえない展開に、思わず失笑してしまいました。
他にも終盤、車椅子のリボウスキー氏を「俺は何人もの怪我人を観てきた。こいつは仮病だ」と床に落とすシーンがあります。
しかし、本当に脚が悪いらしく、気まずい空気が流れました。
ここも、普通なら当然立ち上がる流れなのに…と苦笑いが漏れてしまいます。
海に遺灰を撒くシーンでも、ほとんど海に落ちずに、陸側に吹き飛ばされ、主人公が灰まみれになっていました。
あれもなかなかヒドいですね(笑)
極めつけは、妙ちくりんな「ニヒリスト」達との闘いで、友人が心臓発作で命を落とすシーン。
なんでこんな情けない死に方をする必要があるんだw
そんな「当然こうなるだろう」という期待や常識にノってくれない、しまらない感じ・不必要感をイメージしてくれればいいかと思います。

それにしても、「勢いが弱い」だの「だらけている」だの「不必要感」だの、あまり褒めている感じはしませんね(笑)
それどころか「ユルい」の逆を考えてみたほうが映画として正解な気がしてきます。
「観客の期待に応える物語」
「スピード感がある、息つく間もない展開」
「緊迫感があり、盛り上がる」
「心がドキドキする」
うん!まさに、よくある映画の宣伝文句ですよね。こっちのほうがよほど万人受けする映画でしょう。
それではなぜ、この映画はその逆をいきながら評価を受けたのでしょうか?
世の中には駄作=「観客の期待に応え、スピード感と緊迫感があって、ドキドキする映画として失敗した作品」はいくつもありますが、この映画ほどの評価を受けていません。
なぜこの映画だけ「ユルいから」と評価されるのでしょう。
それはこの映画の核にあるのが、「ユルさの肯定」だからです。
ユルさの肯定
この映画はただユルい展開を繰り広げるだけでなく、その「ユルさ」を積極的に肯定しています。
普通だったら批判されるような「ユルい」登場人物達にも、優しいのです。
短絡的で無神経な友人ウォルターがどれだけバカをやっても(そしてそれを反省していなくても)、主人公のデュードはまた一緒にボーリングをしてくれます。
学生の頃はまだしも、大人になると、あそこまで親密に遊べる関係って正直羨ましいものです。
デュードはろくに働かず、誰かの役にも立つこともない男ですが、映画の中ではなぜだか気楽に生活できています。
ボロボロだけど車はあるし、ボーリングにはいけるし、いつもホワイトロシアンを楽しんでいます。
彼がお金に困る描写がないのは、「わざと」なのかなとも思います。
心臓発作で死んだドニーは可哀想でしたが、死んだ後に主人公は悲しみにくれ、それをウォルターがハグして慰めていました。
僕が死んでも、ここまで悲しんでくれる友人はいないんじゃないかな…。
彼らは社会的には「負け組」なのかもしれませんが、映画の中では不自然なほど不遇な目に遭っていないのです。幸せそうなのです。

エンドロール直前のカウボーイ姿のおじいちゃんのセリフを聞くと、「きっとこれからも彼らは幸せに暮らすんだろうな」という気分にまでさせられます。
これでどうやらすべて片づいた
デュードとウォルターはもう心配ない
どうだ?いい話だったろ?
結構 あれやこれや 笑えたろ?
本来ダメ人間なはずの主人公達を、徹底的に肯定しているのです。
僕は、自分の方が社会的には安定しているにも関わらず、彼らが羨ましいとさえ感じました。
深夜にじわじわ評価をあげた理由
そもそもこの映画は、ヒット作ではありませんでした。
公開当時はせいぜい製作費を回収できる程度だったのです。
コーエン兄弟の前作「ファーゴ」がアカデミー賞脚本賞を始めとした様々な賞を受賞し、興業的にも大成功したことを考えれば失敗と言えるレベルです。
ところがDVDが発売されると、じわじわと人気に火がつきます。
深夜に観る映画にぴったりだとして、主に若者から人気を集め、カルト的な支持を受けたのです。
「若者」が「深夜にみる」ことで人気がでるとは、なかなか興味深いと思いませんか?
考えてもみてください。
「深夜に映画を観ている若者」なんて、まだ社会に貢献もしていないし、そのくせ酒を飲みながらダラダラ夜更かししては、どこか焦ったり後ろめたく感じたりするものです(偏見)
そんな焦りと不安を抱えた彼らにとって、この映画の「ダメ人間の肯定」は、奇妙な安心感を与えるのです。
いや、デュードは決して英雄じゃない
だらしない不精者。
彼は不精者だった。
ロスでも彼以上の不精者はいない。
…ってことは世界でも一、二を争う不精者
だがそういう男でも
そういう男であっても
…なにを言いたかったのか忘れた

前作「ファーゴ」には、お金のために連続殺人まで起こしてしまったチンピラと妊娠中の婦警という鮮やかな対比によって、「幸せは金銭になんかない、もっと違うところにある」という問いかけがあったように思えます。
この映画ではさらに一歩踏み込んで、「じゃあ、幸せって何だろう」と描いてみせたのではないでしょうか?
この映画は若者達に語りかけます。
「ダメな奴だってさ、いいじゃん」
そして若者はこう思うのです。
・・・薄々わかっていたけど、自分は決して英雄じゃない。ひと角の人物になんて成れそうもない。
それでも、こんな自分でも、幸せに生きることはできそうじゃないか。
今度アイツに声かけてボーリングでも行こう。
一緒に酒でも飲もう。
そんな気分にさせるのです。
“デュードは死なないよ”
いいね
ホッとする言葉だ
デュードは決して死なない
いつまでも俺たち罪人の味方だ
自宅でホワイトルシアンを作って飲んで、人生を楽しもう