この映画の核はギャッツビーの精神的な成長にあります。
彼が抱えていた葛藤と矛盾とは?
そこから浮かび上がる監督自身の決意表明とは?
解説していきたいと思います。
ロマンチスト
彼女であるアシュリーが、ギャッツビーをこんな風に評しています
ギャッツビーは…すごくいい子なの
とても面白くて、物好きで風変わり
それがぴったりな表現ね、“風変り”
彼はエキゾチックでいつも探してる
消え去った時代のロマンチックな夢を
“風変わりなロマンチスト”、たしかに、観客の目から見てもギャッツビーは立派なロマンチストでした。
映画の中で度々「ニューヨークの雨」にロマンチックなものを感じていたり、やたらと理想的なデートに固執したり。
雨でも乗れるよ ロマンチックじゃないか
また、賭け事や恋愛と言った感情を大きく揺さぶるものを好む反面、
社会的な成功や就職や収入等の現実的な価値にはあまり興味がもてない様子も描かれていました。
こういった「現実的な価値より感情の高ぶりを優先する性格」こそが、ロマンチスト=現実離れした空想家・理想主義者なのかもしれません。
ついでですが、彼の好きなピアノ曲の歌詞を観てみます
君が運命を変えてくれると思った
愛の力で絶望を終わらせてくれると
(中略)
君の返事は“さようなら”おまけに料金不足
たった一度の恋 君でなければダメなのに
ツキの悪い男なのさ
いやはや、口にするのもこそばゆい、なんともロマンチックな歌詞ですね(笑)
ギャッツビーの葛藤
ところが当人のギャッツビーは、自分がロマンチストであることに対して、妙に複雑な捉え方をしているようにみえます。
彼はおそらく、自分の性格を、こんな風に考えています。
「自分のロマンチックなものへの憧れは、母親への反発、逃避にすぎないのだ」
そう、彼は自分の好みに対して、『逃避にすぎない』と深層心理でブレーキをかけていたと思えるのです。
ギャッツビーと母親との関係はなかなか複雑です。
彼は「母親のパーティーに顔を出したくない」と嫌がり、母親に苦手意識を感じていました。
「嫌い」という感情とはちょっと違う気がします。
気になりつつも、自分が認めてもらえるか自信が無く、それゆえに常に苛立ちを感じていたのではないでしょうか。
映画冒頭の一節をみてみましょう。
「ニューヨークは他のどの町とも違う。不安と敵対心と被害妄想をかき立てる」
不安と、敵対心と、被害妄想。
おそらく彼はニューヨークの街に対して、母親に対して抱くイメージを無意識に投影していたんじゃないでしょうか?
そして「不安」という言葉の中には、苦手意識を感じる一方で、母親の期待に応えたいという無意識の欲求も感じられないでしょうか。
彼は母親に認めてもらいたかったのです。
自身の通うヤードレー大学について「評判のいい上品な大学で僕の母は満足している」と述べているのもそうですし、
なにより、恋人であるアシュリーに対する態度に、母親への複雑な思いがみてとれます。
車の中でチャンに「(アシュリーを)愛しているのね」と聞かれたときのことです。
彼はアシュリーを理想的な彼女だと並べ立てました。
癒されるんだ
チャーミングで明るくて美人だ
セクシーでウィットもある
歌もフルートもうまい
…しかしこれらはすべて、彼女が理想的な伴侶である“客観的な条件”に過ぎません。
ギャッツビーは、アシュリーにロマンチックな要素を感じていたのでしょうか?
心を動かされたのでしょうか?
いえ、そんな様子はついぞ見えませんでした。
むしろ、アシュリーとギャッツビーの会話はどこかぎくしゃくしており、しっくりきてる感じがしません。
チャンと交わしたような、テンポのいい皮肉の効いた会話も全くありませんでした。
「話題はサボテン?」
「ガラガラヘビだ」
「アリゾナを楽しんで
砂漠で迷子にならないでね」
「水筒を忘れないよ」
…そういえば、アシュリーとはキスシーンすら無かったような。
しっくりくると感じる相手じゃないのに、なぜアシュリーを選んだのでしょう?
もしかしたら彼は、深層心理で「母親に認められるようなふさわしい相手」を選んでいたのではないでしょうか。
冒頭のモノローグでも、彼はこんな風に語ります。
父親はアリゾナの銀行経営者
家柄もよくて僕の母は結婚を期待している
僕もその気だ
どうも彼には、母親に反発しつつも「評価されたい」という気持ちが胸の奥にこびりついているように思えます。
「苦手だ」という気持ちと「認められたい」という気持ちがごちゃまぜになった、母親に対する複雑なコンプレックスです。
また、アシュリーはギャッツビーのことをこんな風にも評しています。
エキセントリックなの
たぶん母親と不仲なのが原因だと思うわ
読書を強制されたり、ピアノを習わされたり
このセリフから興味深い点が一つ浮かびます。
ギャッツビーの母親への反感の原因(のひとつ)に、読書やピアノの強制があるということです。
たしかに彼は母親の主催する「文学サロン」も忌み嫌っていましたよね。
でも実は、彼自身は芸術的な要素は決して嫌いじゃないんです。
チャンの家に行ったときには自ら進んでピアノを弾いて楽しんでいるし、美術館を楽しむだけの素養もあります。
アシュリーに別れを告げる直前には、ある一節を呟いていました。
騒々しく行き交う往来の中にいても、ひとりで部屋に佇む静寂の中でも
これはコール・ポーターの代表曲であり、ジャズのスタンダードナンバーのひとつ『夜も昼も』の一節です。
これを「知ってる!シェイクスピアね!」なんて言ってしまうアシュリーに「やっていけない」と思ってしまうギャッツビーは、やはり芸術を愛する人であるし、
たったそれだけで素晴らしい“好条件な”女性を袖にするなんて、理性的な判断とは言えません。
もともと彼は、アシュリーに「どこかしっくりこない」と違和感を感じていたのかもしれません。
しかし、母親へのコンプレックスゆえに、素直にロマンチストな選択に突き進めなかったのです。
自分のロマンチストな性格、非現実的な理想に恋い焦がれる性分は「逃避にすぎない」という思いこみもあったでしょうし、
母親に認められたいという欲求もあったでしょう。
ただ、自分の嗜好を自分で否定し続けることは、自分の心の声を無視し続けることと一緒です。
いつしか、なにが自分の本音か、自分でもわからなくなってしまいます。
だから彼は、改めて将来の夢を聞かれたとき、正直な気持ちがわからなくなっていたのかもしれません。
「もがいてる。自分が何になりたいのかわからない」
母親の告白とギャッツビーの自覚
しかし母の勇気ある告白を経て、彼はコンプレックスから解放されました。
母は決して「自分がかなわない相手」でも「自分のことを認めてくれない」わけでもありませんでした。
むしろ、自分とすごくよく似た人間だったのです。
「母に認められたい」という欲求が昇華されたことで、
無意識で「母に認められるために」していた行動の動機が消失します。
具体的には、「母も認める良い伴侶」であるアシュリーと別れる決断です。
条件的には完璧であっても、しっくりこない彼女。
「彼女は完璧なんだから、僕は大好きに違いない」と思いたかったのでしょう。
でも、「完璧な彼女」とつきあうことで得られると思っていた「母の承認」は、もう手に入れることが出来たのです。
こうして彼はアシュリーと別れ、
そして本当の自分を見つめなおしました。
「母親に反発したいからロマンチックなものに惹かれるんじゃない。
元々自分はロマンチックなものが好きなんだ」
「じゃあ、自分はどんな相手と、どんな恋愛がしたいんだろう?」
そうして彼は、自分の感情に素直に従い、
チャンとのロマンチックな出会いに身を投じる事ができたのです。
ウッディ・アレンの決意表明
そしてウッディ・アレン監督本人もまた、人生の多くの場面で「現実的、道徳的な好条件より、感情の衝動を優先」してきた方です。
栄誉あるハリウッドのアカデミー賞で監督賞を受賞したとき、彼は受賞式そっちのけで、趣味のジャズバンドでクラリネットを吹いていました。
彼は映画賞自体に否定的だったのです。
「賞の考えはばかげている。私は他人の評価に従うことができない。なぜなら、賞に値すると他人に評価され、賞を受け入れるならば、彼らに賞に値しないと言われた時、それを受け入れなければならないからだ」
ウッディ・アレンのインタビューより
たしかにかっこいい発言ではあります。
それにしたって、世界一の映画業界に背中を向けるなんて、勇気のあることです。
また私生活では、交際相手の養子である女の子スン・イーと体の関係を持って、なんとその子と結婚までしてしまいました。(もちろん、元交際相手とは泥沼の破局)
当然、山のようなバッシングが巻き起こりましたし、現在でもバッシングや上映ボイコットのまっただ中です。
普通に考えれば、パートナーの連れ子の35歳年下の女の子と結婚したら批判は免れませんし、ましてや彼は世界的な有名人です。
世界中からボロカスに批判にさらされることは容易に予想できたはずです。
それでも彼は、スン・イーと結婚し、隠しもしませんでした。
他人の評判や、「よくない」という理性がいくらあったとしても、
それで自分の心の声を抑えたくはなかったのでしょう。
道徳的、理性的な判断はおいておき、とにかく彼はそうなのでしょう。
ロマンチストな恋に身を投じるギャッツビー。
笑い声だけで離婚を決めたい兄。
スン・イーとの結婚を決めたウッディ・アレン。
きっとこの映画は、ギャッツビーが本当の自分を見つめ直す成長物語であると同時に、
世界一ワガママでロマンチストな映画監督、ウッディ・アレン自身のこんな決意表明なんです。
自分はこれからも、自分の心の声を一番に生きていく。
道徳的な批判もされるだろうし、受け入れられないかもしれない。
それでも私は他人の評価に従うことはできない。
結局自分はいつまでもロマンチストなのだ。
どれだけ周りに咎められようと、本当に好きな人を、諦めることなどできないのだ。
なお、ギャッツビーの猫背とツイードのジャケットは、
ウッディ・アレン氏のトレードマークでもあります。