なんだか難解というか、「よくわからない」という印象の映画だったかもしれません。
一部の人はその不思議で静謐な雰囲気を評価しているようですが、大多数にとっては「どうしてこれがカンヌ映画祭で大賞をとれたの??」と疑問かと思います。
この記事では、この映画がどうして評価されたかを説明したいと思います。
世界観が評価された
まず前提として、この映画はストーリーを味わうものではなく、世界観を味わうものだと意識してください。
いったいどんな物語なんだろう、どんな意味があるんだろうという考察より、
「こんな世界があるんだよ!」という紹介に価値があるんです。
「それにしたって、特筆すべきほどの世界観とは思えないケド…」と思われるかもしれません。わかります。
死んだ妻の霊が死期の近い夫を迎えにくる話、
息子が猿のような山の精になってしまった話、
前世を覚えている男の話(劇中では特に語られませんが、ブンミおじさんは前世を思い出せるそうです)
自分のドッペルゲンガーをみた話、
それらを驚きつつも、なんとなく受け入れる主人公たち。
どれも、さして新鮮な驚きを提供してくれるほどではありません。
それこそ「日本むかしばなし」に似たような話がいくつかありそうですね。
(特に、奥さんの霊が透析の交換を手伝ってるシーンは、すごく「むかしばなし」的な庶民感がありましたねw)
でも、この「昔話にありそう」という感覚は重要なポイントです。
この映画は日本人にとっては“昔話にありそうな退屈な話”かもしれませんが、
実は欧米で生まれ育った人にとってはとっても斬新で、オリエンタルな魅力に満ちているのです。
なぜなら、あちらでは、“ある事情”により、妖怪、霊、山の主といった超自然的な存在が極めて珍しいのです。
その事情とはなんでしょうか?
そこには欧米全体をなんとな~く支配している、キリスト教的な考え方に原因があったのです。
欧米のキリスト教と、タイや日本でメジャーな仏教の違いは何でしょうか。
一神教と多神教という言葉がすぐに思い浮かんだ方もいるかもしれません。
でもこの違いは「信じる神様が一人か、たくさんいるか」というシンプルな話ではないのです。
実はキリスト教には、
「超自然的な存在は、唯一神ヤハウェだけ。
だから他の神様を信じないのはもちろん、
心霊現象も、呪術も、おまじないも、森の妖精も、一切信じてはいけない!!」
という強烈な決まりがあります。
ここが多神教の感覚と大きく違います。
具体的にいうと、
「お地蔵様にお供えする」
「おみくじをひく」
「夢枕に立ったおじいちゃんの言うことを聞く」
「村の守り神をまつる秋祭りをする」
「山の主を鎮めるためにお供えをする」
「妖怪を信じる」
日本では当たり前のこれらの行為も、全部アウトです。
厳密にいえば、処罰の対象にすらなるんです。
もちろん古来にはヨーロッパにも「山の主」や「家族の霊」の概念も存在していました。
しかし、キリスト教の広まりとともに禁忌とされていき、
次第に「すべてをキリスト教の文脈(神か悪魔か)で説明する」という風土が出来上がり、
長い間それが当然とされていました。
そんな感覚が深層心理レベルで染みついた欧米では、
“「死んだ妻の霊」や「前世」や「山の精霊(妖怪??)」の存在を当たり前のように受け入れる”という世界観は、
ひどく新鮮で、驚きなのです。
しかしそれでも、「どうして欧米と違う世界観を提示するだけで、ここまで評価されるのだろうか?」という疑問が残ります。
それにもちゃんと、理由があるのです。
欧米的価値観への疑問
この映画が公開されたのは2010年5月です。
その少し前の、2008年から2009年にかけて、欧米社会は大きな挫折を味わいました。
勘の良い方は気づいてるかもしれません。
2008年に端を発するリーマンショックです。
あれは当時、ただの不景気ではありませんでした。
今まで欧米資本主義の“花形”であった投資家や証券取引所、その権威の失墜でした。
ただ自分たちが損をするだけでなく、世界を巻き込んで大失敗をしてしまったのです。
彼らはあれだけ偉そうに成功体験を語っておきながら、実は誰も金融商品の欠陥に気づいていなかったのです。
「投資家こそ至高。資本主義こそ勝利。欧米的価値観こそ絶対的正解」
そんな幻想にヒビが入った瞬間でした。
そして、絶対的に信じていたものを見直す動きが出てきました。
“欧米的価値観”を疑いだしたのです。
「欧米的価値観が人生を豊かにしてくれるとは限らない。もっと他の何かがあるんじゃないか?」
東洋的な思想への興味。
お金や物への執着への疑問視。
そんな心理が『ブンミおじさんの森』で示された世界観に興味を示したのです。
そういえばブンミおじさん自身も「農園の経営者」という資本主義的な成功に満足感はないようにみえますね
このとき審査員長であったティム・バートン監督は、この映画が受賞した理由をこう述べています。
「世界はより小さく、より西洋的に、ハリウッド的になっている。でもこの映画には、私が見たこともないファンタジーがあった。それは美しく、まるで不思議な夢を見ているようだった。僕たちはいつも映画にサプライズを求めている。この映画は、まさにそのサプライズをもたらした」。
彼は明らかに、この映画に欧米的価値観へのアンチテーゼを感じ取っていたのです。
さらに、審査員長を務めたティム・バートン監督が、実はもうひとつの鍵も握っていたのです。
ティム・バートンと“あの映画”の関係
「アジア的多神教観を描いた映画」と言われたら、もう一つ思いだして欲しい作品があります。
ご存じスタジオ・ジブリの『千と千尋の神隠し』(2001年公開)です。
実はこの作品が「ブンミおじさん」に繋がってくるのです。
この映画も「八百万の神」を題材とした作品でした。まさに多神教の概念そのものですね。
日本で生まれ育った観客は「様々な神様が銭湯につかりにくる」という設定を、特に違和感もなく受け止めています。(大根の神様、河川の神様などがでてきましたね)
しかし欧米の観客はこの世界観に衝撃を受け、絶賛しました。
世界三大映画祭のひとつ、ベルリン映画祭では最高賞の金熊賞を受賞し、アカデミー賞でも長編アニメーション賞を受賞。
最大手映画批評サイト『Rotten Tomatoes』では肯定的レビュー率が97%、平均レート8.6というとんでもない高評価を叩き出しました。
「千と千尋の神隠し」は、見事に描き出されたおとぎ話であり、眩惑的、魅惑的だ。この作品を見た観客は、自分たちの住んでいる世界がいつもよりも興味深く、魅力的な物に感じられるだろう。
また、英エンパイア紙の読者投票による「史上最高の映画ベスト100」でも、80位にランクインしています。
日本人が思っている以上に、スゴく評価されてる映画なのです。
余談ですが、金曜ロードショーで初放映されたときは46.9%もの視聴率を叩き出しています。
前述のティム・バートン監督も当時、この「千と千尋の神隠し」について宮崎駿監督に賞賛のコメントを寄せているそうです。
ところで、『千と千尋の神隠し』はよく「物語の構造が不思議の国のアリスに似てる」「これは現代のアリスだ」と評価されています。
女の子が不思議の国に迷い込む、というストーリーはいつの時代でも魅力的で、人を引きつけるのでしょうね。
さて、「千と千尋の神隠し」から10年後、2010年に「ブンミおじさん」が公開されるわけですが、同じ年にティム・バートン監督がつくった映画をご存じでしょうか?
そう、「アリス・イン・ワンダーランド」です。
「不思議の国のアリス」の後日談としてつくられ、ティム・バートン風味に仕上げたこの作品には、そこかしこで「千と千尋の神隠し」に影響されたような描写が見て取れます。
「二人の魔女」の争い、悩める女の子が冒険を経て強くなる描写、小さな動物たちが脇役として機能する…
本当に「千と千尋」に影響を受けたのか、あいにく本人がコメントを残しているわけではありませんから、あくまで推測です。
意識的なオマージュなのか無意識なのか偶然か。映画を観て自ら判断するしかありませんが…。
ただ、もしも、2001年の「千と千尋の神隠し」にティム・バートン監督が強い影響を受けたのだとしたら…
彼が「私も、自分らしい“不思議の国のアリス”を描こう」と思い立っても不思議ではありません。
同時に、自分とは異なるテイストの個性的なファンタジーとして、東洋のアミニズム文化にも憧れを抱いたのではないでしょうか。
特に「アリス・イン・ワンダーランド」を製作している間は、いやが応でも自分のテイストと「千と千尋」を比べてしまったことでしょう。
自分の作品はこれはこれとしていい出来だと思うが、あの神秘的なくせに庶民的な、不思議な世界観もまた素晴らしい。
世の中にはまだまだ、西洋のものとは違った世界観と魅力を持った作品も存在するのだなぁ…。
そんな東洋への敬意、未知なる世界観への関心が、彼の根底にあったのではないでしょうか。
そういえば「ブンミおじさん」でも、タイのポップソングが流れる中、ドッペルゲンガーがじっとしている…という「神秘的なくせに庶民的」な不思議な余韻で物語が終わりましたね。
まとめ
もちろん、「ブンミおじさん」はただティム・バートンの興味だけで評価されたのではないでしょう。
控えめな反戦メッセージ、輪廻転生という哲学的なテーマも評価の一因と思います。
ただ、カンヌ国際映画祭は、審査員長の好みが大きく反映される賞でもあります。
審査員長のティム・バートンが、あのとき何を考えていたのか。2010年はどんな空気だったのか。
そんなことを想像すると、「ブンミおじさん」がバロンドールをとった理由も見えてくるのではないでしょうか。