82点
日記をつける習慣が、中学の頃からかれこれ十数年続いている。
たまに何年も前の日記を読み返すと懐かしくて思わず笑ってしまったり、不思議なことに、全く記憶にないエピソードに出くわすことがあるのだ。「今日はBと遊んだ」。記憶は一切無いのに、目の前の日記帳には変わらぬ自分の悪筆で詳細が書かれている。少し気味が悪いような気もするし、自分の記憶などあてにならないってだけかもしれない。
『メメント』の主人公が抱えた記憶の欠落を、それより格段に厄介だ。ある事件の傷害で、わずか“10分間”しか記憶が持てなくなってしまったのだ。
彼の記憶に傷を付け、なにより彼が愛する妻を奪った男を許せず、無謀にも彼は自ら男を追いかけ復讐すると誓う。メモを残し、ポラロイド写真を残し、重要な情報は入れ墨で自分の身体に彫り込んだ。
「記憶もないのにどうやる!メモで犯人を捕らえられるわけないだろう!」「警察もメモで犯人を追う。メモを残し、記録を残し、犯罪を立証する。彼らが頼りにするのは記憶じゃない、記録だ。」
主人公の言い返した言葉はどこか筋が通っているようで、非常に危うい。なにしろ、彼は隣で一緒にいる男が相棒なのか、疑うべき相手なのかすら“覚えていない”。そして、主人公の持っている一枚の写真には隣にいる男が写っている。その写真には、たった一言の走り書きがあった。
“彼の嘘を信じるな”と…。
このたった一言の仕掛けがとにかく秀逸なのだ。
こいつは、俺を騙そうとしている…?そう疑念が頭をよぎった途端、友情は下心のある馴れ馴れしさに、主人公を助けようとするアドバイスは口当たりの良い誘惑に思えてしまう。面倒見の良いヒゲ面が、下卑たニヤけ顔に見えてきてしまうのだ。
たった一行のメモのなんと効果的なことか。
主人公を、そして観客までをも疑いで支配してしまったのだ。
だが、面白いのはここからだ。
映画が進むにつれて、逆に彼への信頼感が芽生えてくる。
嘘を信じるなと書いてあるが、彼は本当に信じるべき相棒じゃないか?主人公のことを思って、必死にアドバイスしてくれていたのでは??
こうなるとわけがわからない。エピソードが積み重なるごとに、彼への印象がくるくると変貌していく。彼を信じて良いのか、いや、誰を信じて良いのか。
そしていつしか、唯一の道標ですら、怪しく思えてくる。
“彼の嘘を信じるな”だと?じゃあ一体、何を信じるべきなのだ?
そもそも自分で書いたはずのこのメモは、信じるべきなのか…?
「信じられるものは自分だけ」なんて言葉があるが、自分すら信じられなくなったときは、一体どうしたらいいのだ…!?
不安と疑惑を見事に操った傑作である。
クリストファー・ノーラン監督は他にもいくつも傑作をつくっている。作品数はそう多くはないが、入念に作り込んでいるのかどれも名作揃い。『ダークナイト』、『インセプション』、『インターステラー』など。(そう、僕が大好きな作品ばかり!)
どれも真実が一瞬で裏表になるような興奮を味わわせてくれる。
クリストファー・ノーラン監督、打率高すぎだろ!
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以下ネタバレ
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恐ろしく印象に残っているのが、親切そうなある女性のエピソードだ。
彼に同情を示し、きっと力になって上げると微笑みかけた。主人公はやっと味方が出来た安堵に思わず笑みがこぼれる。照れ隠しのようにジョッキを煽るのを、女性は嬉しそうに眺めている…。
これだけなら、幸せそうなエピソードではないか。
しかし直後、『その10分前のエピソード』を知り愕然としてしまった。
親切そうな女性が彼に手渡したジョッキ、それは彼女が目の前で唾を吐き入れたものだった。
そう、彼は記憶の欠落ゆえ唾入りであることを忘れジョッキを煽り、それを彼女はニヤニヤと笑っていた…!
僕はこのシーンが一番好きだ。
たった一つのシーンで、全てがひっくり返る…この映画はそんな衝撃の積み重ねで出来ている。
映画を最後まで見終わると、ようやくあのメモは誰が書いたのかが判明する。
あれは主人公本人が書いたものだった。
よく考えれば悲しいメモだ。
殺人をこれ以上繰り返したくないのなら、「J・Gはもう死んだ」と書くはずじゃないだろうか。
だが、そう書くことができなかった。彼には復讐しか生きる動機がなかったのだ。
あの婉曲なメモだけでテディを殺す結末まで想像できていたとは到底思えない。
復讐相手はいない、でも復讐は続けたい、しかしテディの手駒になるのは嫌だ。妻に関する真実など、知りたくもない…。
苦悩の果てに選んだのが、「テディの言葉を信じるな」という逃避であったのだろう。
ただただ、現実から目を背けたかったのだ…
ところで、冒頭の日記の話。
日記を読んでもすっかり思い出せない記憶もあれば、まったく勘違いしていた記憶もある。自分の記憶なんてものは、決して万全じゃないってことだ。
では、日記の隅に、自分の筆跡で“嘘を信じるな!この日記は奴のでたらめだ!”なんて走り書きを見つけてしまったら…
あなたは何を信じるだろうか?