映画「歩いても 歩いても」のネタバレ解説・考察/タイトルの意味

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映画「歩いても 歩いても」を観ました。
最初に思ったのは、あまりにリアルな家族関係の難しさ。「胃の痛くなる映画だなぁ(笑)」と思いました。

リアルな家族描写と、役者さん達の演技力に舌を巻く一方、映画そのものは純文学的というか、少々わかりにくいとも思いました。(もちろん、言語化しにくい感情の共有も映画の大きな魅力ですから、それはそれでいいのですが。)

しかしせっかくなので、この映画の伝えたかった意味や魅力を、しっかり考えて掘り下げてみたいと思います。

この映画のテーマを一言で言えば「家族ってこういうものだよね」です。

でも、その“こういうもの”が何かを言い表すのは、ちょっと難しいです。

強いて言うならば“葛藤しつつ、求め合う”ではないでしょうか。

それぞれの葛藤

映画では一泊二日の里帰りの中、それぞれが他の家族に対して抱く葛藤が少しずつ炙り出されていきます。

主人公の良多(阿部寛)はもちろん、「いつも優秀な兄と比較されるコンプレックス」という非常にわかりやすい葛藤を抱いていました。

主人公の母親(樹木希林)も、長男の死や旦那の不倫に苦しんでいたことが次第に明らかになってきます。

主人公の奥さん(夏川結衣)も「自分の息子だけ『くん』付けだし、パジャマも用意していない」と不満を述べていました。正直、外野からみると「気にしすぎ」と思えますが、たぶん内心の不安の表れでしょう。言葉に出さないだけで、本当はすごく自分の立ち位置を気にしていたと思います。

連れ子のあつし君は、本当は死んでしまったパパのことをすごく気にしていたのが印象的でした。
「パパと同じピアノの調律師になりたい、それがダメなら(父親を治そうと医師を志した祖父のように)医者になりたい」とのセリフや、頑なに良多を父親と呼べないところとか。
そのくせ、いとこには「普通」と誤魔化すあたりが彼の葛藤がみてとれますね。
冒頭、「死んでしまったウサギへの手紙」への冷淡な態度は、実際に父親を亡くしている身だからこそ現実的になってしまったのでしょうね…。

そして、家族の一番の悩みの種であったおじいちゃん。
隣家のおばあさんが救急車で運ばれるシーンでは、彼の無力感が浮き彫りにされていました。
体の衰えにより医師が続けられなくなったこと。心の支えにしてくれる人の頼みすら断らなければいけないこと。若い救急隊員にまで邪険にあしらわれてしまいます。
彼が“跡継ぎ”に執着するのは、この無力感にも理由があるのかもしれません。

なお、この場面は「医者なんてロクなもんじゃない」と嘯いていた主人公が、父親の医師としての仕事を全うできない無力感を目の当たりにした重要な場面でもありました。
何気ない風景の積み重ねでつくられた映画の中で、ここだけ外部要因的な「事件」であることからも、重要な意味を持ったシーンだと気づかされます。

なぜ家族は厄介なのか

それにしても、家族はなぜこんなお互いに葛藤を抱えるのでしょうか。
それは、あまりに身近すぎるせい、言い換えれば、あまりに当然の存在すぎるからです。

帰ってきて当然、生きていて当然。
自分の人生をどれだけ“歩いても歩いても”、繋がっていて当然。

「ありがとう」の対義語は「当たり前」だと、どこかで聞きました。
たしかに、ありがたいを辞書で引くと、こんな風に出てきます

あり‐がた・い【有(り)難い】
[形][文]ありがた・し[ク]《あることがむずかしい、の意から》
1 人の好意などに対して、めったにないことと感謝するさま。「―・い助言」「―・く頂戴する」

2 都合よく事が進んでうれしく思うさま。「―・いことに雨がやんだ」「社にとっては―・くない状況だ」

当然のように助けてくれるから、感謝の気持ちも忘れがちになってしまう。
当たり前のようにずっといるから、「いつかいなくなる」ということすら忘れてしまう。
誰しも、思い当たる節があるのではないでしょうか?

また、家族という関係にはゴールがありません。
「これくらい仲良くなったらゴールですよ、めでたしめでたし」というものではないんです。

長い人生の中で、腹が立つこともあれば、傷つけてしまうこともあるでしょう。
苦い記憶もちょっとずつ蓄積されていきます。
それでも、余程のことがない限り、家族でなくなるという選択肢は許されていません。
家族はいつまでも家族であり続けるし、どこかで、それに甘えて油断してしまう。

あまりにその存在が“当然”過ぎて、家族って厄介なんですね。

この“当然”を考える上で興味深いのが、亡くなった長男です。
彼はある意味、家族でありながらその“当然”から外れてしまった例外的存在だと気づきます。

死んでしまった彼には全ての“当然”が通用しません。
帰ってきて当然、生きていて当然、繋がっていて当然。

生きている時は喧嘩もしたでしょうが、死んでしまえば思い出として純化されてしまいます。
また、当人が亡くなっているので、何かを要求する対象にもなりません。

だからこそ、家族は長男にたいして厄介な感情を持たずに済んでいるのでしょう。(次男の主人公には葛藤の対象にされていますが、それはどちらかというと周りのせいですしね。)

「厄介なモンダイ」という温かみ

「家族は厄介」という言葉を使いましたが、この映画から感じる「厄介」は、忌み嫌うような負のニュアンスとはちょっと違いました。

あれだけ愛想の無かったおじいちゃんが、主人公家族が帰るやいなや「次は正月かぁ」と早速次回を楽しみにするかのように言っていました。

あるいは、ラストの主人公のモノローグで、「結局父とサッカーには行かず、母親を車に乗せることはなかった」と親孝行が間に合わなかったことを後悔するようなセリフがありました。

それぞれが葛藤を持ってはいるのですが、それでも彼らは無意識に求め合い、「家族」という形を保とうとしています。

この映画では家族の厄介さを炙り出しましたが、「家族ってこんなもんだ、ろくなもんじゃない」と冷淡に切って捨てはしませんでした。
むしろ「家族って厄介なモンダイだよね。ややこしくてメンドクサいけど、気になっちゃうんだよね」苦笑いのような温かみを感じます。

それこそがこの映画が言いたかったことではないでしょうか。

タイトルの意味は

「歩いても 歩いても」は劇中でも出てくる歌謡曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌詞の一部です

歩いても 歩いても
小舟のように 私はゆれて
ゆれて あなたの腕の中

足音だけが ついてくるのよ
ヨコハマ ブルーライトヨコハマ
やさしいくちづけ もう一度

しかし、歌詞をどれだけ読んでも、この映画の内容とはリンクしてきません。
この歌に意味があるというより、「歩いても 歩いても」のフレーズに意味があると考えます。

「歩いても歩いても」だけだと意味が絞り込めませんが、この映画の英語版のタイトルを観てみましょう。
英語版のタイトルは「Still Walking」。直訳すると「今もまだ歩いている」です。

この線で考えてみると、

歩いても歩いても辿り着かない = 「家族」という関係にゴールはない

ということではないでしょうか。

いつまでも身近に在り続ける、温かくて、厄介な関係。
つまり、家族そのものを意味しているとだと思います。

『歩いても 歩いても』と『東京物語』、そして『万引家族』

何気ないありふれた風景を積み重ねて、家族の関係を炙り出す…。
この映画は往年の名作『東京物語』(監督:小津安二郎)を彷彿とさせます。
実際に、海外でも「さすがYasujiro Oduの系譜だ!」という評価がみられました。

どちらも世代間の意識格差、家族の葛藤を描いた名作ではありますが、ひとつ大きな違いがあります。

それは、時代です。(当たり前ですね…^^;)

『東京物語』が公開されたのは1953年です
戦後、従来の家族の形が変わりつつあることを描き出しました。
もちろん、家族の間での葛藤は、現代でも通用する普遍的な問題ではあります。

一方、『歩いても 歩いても』は2008年です。
50年もたった現代では、さらに「家族だから」という常識が通用しなくなってきました。
『歩いても 歩いても』が公開された年には、日本で初めて「赤ちゃんポスト」が設置されて話題になりました。
「毒親」という単語がクローズアップされだしたのも、ちょうどそのころ、2010年前後からです。
幼児虐待死、ネグレクトによる餓死のニュースも多くなったような気がします。(これは僕の主観ですが…)

この映画では「家族って厄介なモンダイだよね。ややこしくてメンドクサいけど、気になっちゃうんだよね」と投げかけましたが、それすら実は「家族に生まれたから、家族になった」という温かい常識に拠っていたものなんです。

是枝監督はこの映画の公開後、「家族」という前提そのものについてさらに深く考えてみたのではないでしょうか。

家族と言う形が崩れつつある、では崩れた先に何があるのか?

なぜ、家族であろうとするのか?

成人してそれぞれ独立した大人達が「家族」である必要はあるのか?

血縁ってなんだろう?

家族って何だろう…?

そうやって生まれたのが、『万引家族』という名作なのだと思います。

是枝監督は家族の向こうに何をみたのか?
ぜひ、続けて観てほしいと思います。

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