バッドジーニアス考察/元ネタ事件とタイに潜む根深い問題を解説

元ネタの事件に関するネット上の大きな誤解と、

タイの格差社会、学歴社会の弊害について解説します。

元ネタの事件について

まず、この映画について日本では「中国の集団カンニング事件を題材にした映画」と説明されています。

ただし、実際にこんなアクロバティックで大がかりな事件があったわけではありません

監督のインタビューより抜粋してみました。

まずプロデューサーから「時差を使ったカンニングをテーマに映画を撮らないか?」と言われたときにすごくおもしろいと思いました

そのニュースを聞いたときに、すごくびっくりしたのですが、時差を使ってカンニングをしたという事実しか知らなかったので、監督として詳細を詰めたりテーマを決めたりして製作しました。

なるほど、ある程度モチーフにしたのは確かなようです。

ところが!

いくら調べてみても、中国での時差を使ったカンニング事件などでてこないのです。

そしてその代わりに、韓国での不正が出てきました。

要約すると

韓国の塾講師が、タイの学生を雇う

学生はタイで試験を受け、問題用紙を持ち出す(当時タイでは管理がずさんだった)

韓国の塾講師は、生徒をアメリカで受験させ、メールで回答を送信する

という事件です。

参考:時差を使ってSAT試験で不正(東亜日報)

SAT試験とはアメリカの大学進学適性試験。そのまんま劇中のSTICのモデルとなった試験です。
権利問題なのかカンニングへの配慮なのか、そのまんまSAT試験という用語は使えかったようですね

ここからは僕の想像ですが、監督がモチーフにしたのは中国でなく韓国の事件では無いでしょうか?

根拠①

英語版の映画の紹介やインタビューでは、一言も「中国」という単語が出てきません。

根拠②

日本のインタビューでは、まずインタビュアーが「この映画は中国の集団カンニングを題材にしているそうですが…」と切り出しています

監督は「プロデューサーから事件について聞いた」とは言っているものの、詳しく調べたとは限りません。

国名をうろ覚えで「(あれ?韓国じゃなくて中国だっけ?)ハイ、そうです」と答えた可能性もあります。

根拠③

映画公開ちょっと前、実際に中国でもSATでカンニングをする事件が相次いでいたため、インタビュアーが混同した可能性があります。

というわけで、確証はありませんが、「この映画は中国の集団カンニング事件を題材にした」というのは厳密には間違いじゃないかな、と思います。

…もっとも、中国でも「消しゴムの中に無線機を隠す」というアクロバティックな方法でSAT試験のカンニングが起こっていたりするので、似たり寄ったりですが(^^;

ちなみに「この映画は中国のカンニングをモチーフにして作られた」という情報をさらに勘違いしたのか、

TBSのクイズバラエティ番組『ワールド犯罪ミステリー』で、

「中国の貧しい天才少女が、バーコードを刻んだ鉛筆と、オーストラリアとの時差を使ってカンニングをした事件があった!」

というエピソードを再現VTRで紹介していたそうです…。

なお、バーコードを使ったトリックは、監督「自分で考えた」と明言しています

情報の確かさについて、考えさせられますね…

「世界一の格差社会」だったタイの思い出

さて、映画の解説に戻ります。

この映画を観ていて最初に思い出したのは、学生の頃バックパッカー旅行で訪れたタイの、格差社会の風景です。

都市の下層社会、「下町」とすら言えないようなほったて小屋が集まるドブ川沿いの貧困地域から、きらびやかな高層ビルが望めました。

↑当時撮影した写真。暗くて見にくいが、ボートの奥にボロボロのほったて小屋がある。

↑ネットで拾った写真

もちろん日本でも貧富の差はあります。

でも、タイではその差がもっともっと圧倒的でした。

実は、タイは「微笑みの国」と呼ばれるイメージとは裏腹に、非常に貧富の差が激しい、世界でも有数の格差社会です。

2018年の金融機関の調査では、人口のわずか1%が、タイ全土の富の66.9%(!)を独占しているそうです。

なんだかイメージしにくいので、日本円と年収で置き換えてみると

10人が年収6690万円

他の990人が年収33万円

という異常な社会なのです。

※あくまで貧富の差を理解するための置き換えで、実際の金額ではありません。しかし映画の中でのパットの実家とバンクの実家を考えると、リアルにこれくらいの数字かもしれませんね…

実は僕自身もタイに訪れた際に、幸運にも映画の金持ちボンボンさながらのお宅に数日滞在させてもらい、タイの上流階級の優雅な生活を垣間見たことがあります。

僕の知人(というか現在の妻)が留学先で御曹司と学友だった縁からです。

御曹司君の家に滞在中ざっと掻い摘んで説明しても、これくらいのインパクトがありました。

・待ち合わせ場所に運転手付きのベンツでお出迎え。
・自宅にはお手伝いさんも数人。
・家の中にトレーニングルーム&卓球台。
・滞在中は常に各種高級レストランをはしご。
・朝ご飯はダイニングの巨大なターンテーブルで、各種おかず&フルーツ。
・休日は200km離れたビーチでアクティビティ。(移動はもちろん快適なワゴン&運転手)

そもそも、僕と御曹司君は、日本で一度会って紹介されただけの関係だったんですよ!

それだけの相手に、こんなもてなしを平気で出来るなんて…どれだけの余裕なんでしょう。

僕は「せっかくタイにいくんだから、現地の人と知り合えれば庶民の暮らしも目にすることができるかも!地元料理も教えてもらえたらいいな~」くらいの軽い気持ちで紹介してもらいました。

しかし、彼の生活は庶民とは真逆、むしろ僕が今まで出会った中でも最も裕福なものでした。

一方、旅行中に出会う市井のタイ人と言えば、バンクの母親ような単純労働に携わる、質素な人ばかりです。

こんなお店や

オートバイで移動するこんな光景や

こんな人も普通にいました。(どれも当時の写真より)

もちろん、普通にサラリーマンをしているいわゆる「中流」な人々もみかけましたが…。

しかし日本と比べると明らかに「貧しい」一般人から、日本と比べても圧倒的に裕福な富裕層まで。

あの格差社会のインパクトは今でも忘れられません。

学力偏重社会

その上タイでは、学力偏重とも言える基準で就職先が決まっていく学歴社会です。

タイの学歴社会の特徴は、学歴によって就ける職種が限られ、本人が努力しても学歴の高い人を追い抜くことは不可能という点です。

タイの学歴社会に関するyahoo知恵袋の回答より抜粋

努力ができる人間、能力がある人間を評価するという意味では、学歴重視を一概に否定するつもりはありません

しかし、あまりにも極端なのは考えものです。

そもそも主人公がカンニングを始めたきっかけは、女友達が「テストでいい成績をとらないと部活動ができない」と悩んでいたからです。

これも極端な学歴偏重の弊害ですよね。

もしかしたらタイでは「成績が悪いと自由に部活動をさせない」なんて行きすぎた規則が珍しくないのかもしれません。

この映画の監督も、映画作りの際にタイの学生にインタビューをしたところ「学力ばかりが重要視され、他の魅力を磨いても評価されない」という意見があったと語っています。

この映画の題材となる不正は韓国や中国で起こっていましたが、あちらも学歴偏重社会であり、同様の問題を抱えていると言えます。

そしてなにより、学歴を得るにはお金が必要という現実が問題なのです。

まず義務教育は9年間のみで、高校以上は学費がかかります。

日本では高校進学率は97%ですが

タイの高校進学率はわずか75%です(※2013年のデータ)

親に資産がなければ大学どころか高校をあきらめる家庭も多く、

40人学級なら10人は家庭の事情で高校進学を諦めている計算になります。

事実上、「お金がなければ学歴は手に入らない」という問題を抱えているのです。

一方、富裕層は、勉強に適した環境を整え、家庭教師を雇い、成績が悪くても潤沢な「寄付」を積んで私立に通うことだって出来ます。

僕がお世話になった御曹司君のように、海外へ留学することだって可能です。

(※タイでは「留学をした」という経歴自体が就職に大変有利です。)

しかし、映画に出てきたバンク君のように一度低収入な生活に陥ると…

低収入の家庭に生まれる

教育にお金をかけられない

高校、大学へ行けない

いい企業に入れない

家庭を築いても低収入

子供が生まれるが、教育にお金をかけられない

こんな負の連鎖に陥ってしまうのです。

映画において、バンクは留学のチャンスをフイにしたことで意気消沈し、後に金持ち御曹司の仕業と気づいて激高します。

最初は「なぜ留学に固執するだろう」と思っていたのですが、

タイの社会にとって「留学」とは、単に外国で学ぶことだけを意味していないんです。

何を学ぶかよりも「留学」という経歴がつくことのほうが重要で、それだけで就職で断然有利になり、高学歴・高収入を得ることが出来るのです。

しかし、「留学」とは富裕層だけが可能な裏技。多額の資金が必要です。

だからこそ映画の中で大富豪のご両親は息子をボストン大学に入れようと考えていたし、

パットの彼女も「一緒に学費の面倒をみてあげる」と言われ心が奪われてしまいました。

そしてバンクにとっても、「奨学金で留学費用を出してもらえる」ことは、「勝ち組コースの門をひらく唯一の方法と同義だったのです。

リンとバンクの違い

一緒に映画を鑑賞した奥さんは「主人公のリンとバンクは、見事に対照的だ」と指摘していました。

物語の中で、二人はその立場を逆転していると。

前半にカンニングを主導していたリンは、映画の最後には正しい心に目覚めて告発に踏み切りました。

一方、最初は正義感で凝り固まっていたバンクは、最後には闇に墜ちてしまいます。(アナキン=スカイウォーカーがダースベイダーに)

この対照的な二人を関係させ、微妙な淡い感情や切ないすれ違いを交えて描いていくのは本当に魅力的で、趣がありましたね…。

しかし、タイの格差社会を知ってしまうと、簡単にリンを賞賛しバンクを批判することは出来なくなってしまいます。

リンの家は、曲がりなりにもピアノと車がある程度には中流家庭です。

この告発に踏み切っても、なんとかもう一度大学を目指すくらいの資産は残されているでしょう。

ですがバンクの家には、そんな余裕はありません。

洗濯機一台買うことすら難しいのです。

おそらく、大学どころか、奨学金がなければ高校の学費すら捻出できないでしょう。

奨学金という唯一のチャンスをフイにした時点で、バンクの学歴は未来永劫閉ざされてしまいます。

そして同時に、超学歴社会のタイにおいては、人生における“負け組”まで確定してしまうのです。

リンは、なぜカンニングを否定したのでしょうか。

もちろん、カンニングが不正だからです

カンニングを認めてしまうことは、テストの公平性そのものを損ない、いい成績をするために努力すること自体が否定されるからです。

しかし、きっとバンクは鼻で笑うことでしょう。

「公平性」?「努力を認める」?

きれいごとを言うな

努力だけで未来が勝ち取れるのか?

本当にこの格差社会は公平なのか?

どれだけ努力をしても、どれだけ学力があっても、俺はもう高校にすら行けないし、社会的な成功だって一生出来ないのだぞ…!

バンクが闇に墜ちる結末は悲しいものでした。

リンと心を通わせる、もっと救いのある結末だって描けたはずです。

しかし同時に、彼の破滅は、必要なものだったとも言えます。

タイに横たわる根深い格差問題を浮き彫りにして、世界に突きつける意味があったのですから。

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