映画『大人は判ってくれない』はカンヌ国際映画委の最高賞『バロンドール』を受賞し、60年以上前の作品ながら、今なお語り継がれる名作です。
この『大人は判ってくれない』って、すごくインパクトのある邦題ですよね。これがまた映画の魅力の一つになっているのですが、個人的には、この邦題に若干の疑問を感じています。
この映画の魅力と併せて、解説していきたいと思います。(※物語のネタバレを含みますのでご注意下さい)
まず、本来のタイトルを改めて見てみましょう。
本来のタイトルはフランス語で“Les quatre cents coups”
直訳すると「400叩き」となり意味が分かりませんが、これは熟語・慣用句の一種で「あらん限りのバカをする」だとか「無分別、放埒な生活を送る」という意味だそうです。
まさに、主人公ドワネルの行動そのものですよね。
しかし英語圏でのタイトルは、なんと“the 400 blow”。
直訳したまんまの「400の殴打」ですよ!!
google翻訳かってくらいのヒドいタイトルです(苦笑)
それに比べれば、日本のタイトルはずっとマシなように思えます。
ただ、改めて考えてみると、やっぱりこの邦題は少し違和感があるのです。
邦題のどこが問題なのか?
日本語のタイトルをよくよく考えてみます。いったい大人は“何を”判ってくれないと言いたいのでしょう?
ひとつ考えられるのは「僕の気持ちを判ってくれない」です。
たしかに、この解釈は分かる気もします。あれだけつらい境遇にあるのだから、ドワネル少年がそう思っていても少しも不思議はありません。
教師も母親も現代からみれば最悪だし、おそらく当時の基準と照らしてもヒドい部類でしょう。(なお、意外にも体罰は避けており、いかに世界と比べて日本が体罰容認か思い知らされますね…。)
しかし、ドワネルは「僕のつらさをわかってほしい。周りの大人のせいで僕は苦しんでいる。」と思っているのでしょうか?
彼が窮地に陥っていく様子を簡単にまとめると、
12歳の少年ドワネルが、厳しい母親や教師に囲まれ、息苦しい毎日を送っていた。
↓
イタズラや自由への衝動に身を任せているうちに、周囲からどんどん問題児扱いされていく。
↓
彼はトラブルを起こしてはそれを揉み消そうと稚拙な嘘をつき、次第に大人たちは愛想を尽かしていく。
↓
ついには彼は少年鑑別所に入れられてしまう。
こんな流れになっています。
そして彼は「つい悪いことをしてしまう自分」「どうせ出来ない自分」への反省や失望は口にする物の、実は周りの大人に対して非難めいた発言を一度もしていません。
もちろん彼が悪事をしてしまうのは、周りの大人の愛情不足・寛容不足にも一因があると思います。
「大人はもっと子供の気持ちを考えてほしいよね」という観客の思いはとても正しい物です。しかし、『大人は判ってくれない』というタイトルだと、まるでそれがドワネルの気持ちであるかのようで、なんか違うぞと思ってしまうのです。
ドワネルの非行の原因
私自身何人もの子育てをしてきて思うに、実際問題として、周りの大人がひどい奴でなければドワネルは問題を一つも起こさないかというと、これがそうでもないのです…。
周りの大人が酷すぎて、そちらに目がいってしまいますが、少年ドワネルが非行に走るのは周りの大人だけが原因とは限りません。彼自身にも原因があるのです。
ではドワネルが抱える『原因』とはなにか?
一言で言えば、それは“未熟であること”です。
映画を思い返すと、ドワネルの様子を見ながらこんなことを思いませんでしたか?
「こんなことしたら、あとでトラブルになるのに…」
「そんな嘘、すぐにバレるに決まってるのに…」
「そこはちょっと我慢すればいいのに…」
周りから見れば、彼の行動は不器用で、まるで合理的ではありません。
やりたいことが思いつけば、後先考えて手を出してしまう。トラブルが起きれば、子供同士の稚拙なアイデアに頼って隠蔽しようとし、かえって火に油を注いでしまう。
なぜこうしてしまうのか。
それは簡単で、判断力、自制心、客観視、トラブル解決能力、そういった点で彼がまだまだ未熟だからなんです。
(※ただ、嘘をついて隠蔽したくなる点に関しては、「親が厳しくて叱責を恐れるため」という面はあると思いますが)
余談ですが、僕の子供にもこのタイプの子がいます。(年齢はもっと低いですが)
いたずら、盗み食い、落書き、大声を出す…やりたいことが思いつけば、後先考えて衝動的に手を出してしまい、何度も叱られています。
最初は、なぜ繰り返すのか判りませんでした。イライラするし、悲しくなるし、打ちのめされたものです。
でもその子自身、実は自分のそういった行動について「だめってわかってるのに、ついやっちゃうんだよね…」と述懐しているんですよね…。
彼がつい悪戯を繰り返してしまうのは親の教育が悪いせいかと悩んでいましたが、そうではありませんでした。「なにがいけないのか」というメッセージはちゃんと届いていたんです。
きっとまだ彼は自制心の部分で未熟というだけなのでしょう。
つまり、少年ドワネルが悪事を繰り返してしまうのは、周りの大人が悪いからだけではありません。彼が未熟だからなんです。
では未熟な彼が悪いんでしょうか?
彼は罰されるべきなのでしょうか?
そんなことはありません!未熟は罪ではないんです。
程度の差はありますが、子供の犯罪は罪に問われないのが世界的な常識です。
一般的に、判断力や自制心は年を重ねて身に付くものだと理解されています。
子供が悪事をしたのはその未熟さが原因であり、それを罪には問わないのです。
また、子供の発達には年齢によってある程度の目安はあるものの、個人差があります。
ドワネルが周りと比べてトラブルを起こしやすい…自制心や判断力が未熟だったとしても、それは彼が悪いのではありません。
彼に責任を負わせるべきではないのです。
全ての子育てに通じる普遍性
そもそもこの物語は、『普遍性』が核になっています。
もっともトリュフォーは自伝的映画にするつもりはなく、テレビの脚本家マルセル・ムーシーを協力者として呼び、他の少年たちや新聞の三面記事なども参考にして、物語に普遍性を持たせたという
映画をよくよく思い返せば、未熟なのはドワネルだけではありませんでした。
クラスメートもみんな似たり寄ったりでした。先生の目を盗んでイタズラに興じ、体育の授業(?)を抜けだしたり。ドワネルとたいしてかわりません。
ドワネルが特に未熟だから訪れた悲劇というより、「あの年頃なら誰にでも有りうる」と描かれているように思えます。
そんな中、ドワネルだけが追いつめられていったのは、なぜでしょうか。
たしかに彼は特にイタズラが多く、すでに失敗を何度もしており、周りの大人が耐えかねたのかもしれません。
でも結局は、彼の周りの大人に寛容さが足りなかったのが原因ではないでしょうか。
イタズラ好きな級友たちがいつしか皆大人になっていくように、ドワネルも大人になっていくはずだったんです。
それが、待てなかったのでしょう。
未熟な我が子に対する寛容さ。
時に厳しくしてしまう私にとって、耳の痛い言葉です。
たしかに大人は判っていません。
ドワネルの辛さも判っていません。
彼の行動動機も判っていません。
彼が真に何を欲しているのか、判っていません。
しかしこの映画が一番訴えたいことは、判ってくれないという“不満”ではないはずです。
重要なのは、ドワネルはきっと、自分の行動が「悪いことだ」と理解しているということです。
自分がどうしてもイタズラをしてしまう、自由を求めて衝動的な行動をしてしまう、それを正当化し、大人が「判ってくれない」と不満を抱いているわけではありません。
きっと彼は、ただただ打ちのめされているはずです。
どうしてもいい子になれない自分、衝動を抑えられない自分。自分は劣った人間に違いない、どうやっても全うになれない…。
ドワネルが抱えていた辛さは、被害者意識でなく、加害者意識なんです。
だから僕は「大人は判ってくれない」というタイトルにどうしても違和感を感じてしまうのです。