英国はいかにドイツに逆転したか/映画ウィンストン・チャーチルのその後

映画ではチャーチルが演説で議会の心をつかみ、イギリスをひとつにまとめたところで終わっています。
果たして、あの絶体絶命のところから、どうやってイギリスは逆転を果たしたのでしょう。

第二次世界大戦は日本目線の情報が多いので、イギリス目線でまとめてみました。

耐えるイギリス バトル・オブ・ブリテン

チャーチルの演説で国民の志気は高まったものの、ドイツとの国力差は大きく、絶望的な状況でした。

そんな中、ついにドイツは海を越えてイギリス本土上陸を企てます。映画のすぐ2ヶ月後です。イギリス、絶体絶命。

 

ドイツは上陸に先立ち、イギリス上空の制空権を握ることにしました。
自由に爆撃機を飛ばせれば、イギリスの艦隊や防衛施設を破壊し、安全に上陸を果たせるからです。

ドイツが擁する戦闘機はイギリスの2倍、爆撃機は3倍の数にもなりました。圧倒的な戦力差です。
対するイギリスも、国の生き残りをかけて全力で迎え打ちます。
この戦い「バトル・オブ・ブリテン」は今なお史上最大の航空戦と呼ばれています。

 

この戦いはドイツ優位で始まり、イギリス各地は空襲の被害に晒されました。
9月7日のロンドン空襲では1000機を超える航空機の大編隊が飛来し、都市を破壊しました。

イギリスの航空機は次々と損傷し、パイロットの不足を補うために経験の浅い新兵や、外国籍のパイロットにも頼らざるをえない状況でした。
しかし、圧倒的な戦力を前に、必死の善戦を続けます。

そんな中、チャーチルも空軍の活躍を賞賛し、国民を鼓舞し続けます。
イギリス国民もまた一致団結し、ロンドン空襲の際は地下鉄の構内に避難し、抗戦を支持しました。

 

1941年5月、ドイツは制空権を握ることができず、イギリス本土上陸作戦そのものを諦めます。

それにはこんな理由がありました。

イギリスの防空体制

勝因のひとつは、イギリスが来るべき本土上陸戦に備え、世界最高レベルの統合防空体制を整えていたことです。

最新鋭の管制レーダー網が各地に配置され、すぐさま敵機の飛来を察知できました。
航空管制や地域指揮所など情報システムが分散・ネットワーク化されており、全ての情報がただちに各戦隊に届けられました。
1930年代からすでに「いつか本土上陸戦の日が来る」と覚悟を決めており、飛行機の脅威も認識し、防備を固めていたのです。対ドイツ和平派の先代首相チェンバレンですら、防空予算は出し惜しみしませんでした。

 

これらを駆使することで、イギリス空軍はドイツに対し効果的な反撃や待ち伏せ攻撃を行い、戦闘を有利に運ぶことが出来たのです。

ドイツの戦略ミス

もうひとつの勝因は、ドイツの失策にあります。

そもそもこの航空戦はイギリス本土上陸を目的とした制空権の奪取です。
それなのになぜ、ロンドンに爆弾を落とす必要があったのでしょう?
空軍基地があったから?軍事工場があったから?

 

実はこのロンドン空襲はヒトラーの命令とされています。
いつまでたっても頑強な抵抗を続けるイギリスに苛立ったことから、「首都ロンドンを攻めたてることで、イギリス国民の心を砕き、降伏させる」とロンドンへの空爆を命じました。

もはやこの時点で本来の「制空権の奪取」という目的を見失っています。

 

結果としてこの空襲でロンドンの市民に被害は与えたものの、むしろ覚悟団結を高めることになってしまいます。
市民を守るため必死になったイギリス空軍からも手痛い反撃を受けることになり、ドイツ空軍は大きな損害を被りました。

さらに、その間にロンドン以外の各地の軍事拠点への攻撃が止んだことで、損傷した機体などの修理が進み、イギリス空軍が体勢を立て直す時間を与えてしまいます。

近年の軍事的研究でも、ロンドンに空襲を行う戦略的価値はなかったとされています。

 

なかなか戦果をあげられあいことに苛立ち、八つ当たりのような首都空襲を感情的に命じる。それに意見する者を認めない。
ヒトラーが「狂った独裁者」と評されるのは、こんなところにもあると思います。

ドイツの失策:独ソ戦

1941年6月、イギリス攻略を諦めたドイツは不可侵条約を結んでいたはずのソ連に突然侵攻を開始します。

ソ連は当然激怒。
本格的な攻略を諦めたとは言え、ドイツは依然としてイギリスと戦争中であり、ふたつの大国を同時に相手することになります。
イギリスは本来、ソ連と関係が悪かったのですが、チャーチルは即座に英ソ軍事同盟を締結。対ドイツ戦で協力体制をとることになります。

なぜこんな不利を招くと分かっていながらソ連に侵攻を行ったのでしょう?ヒトラーの戦略的意図はわかりません。

 

開戦当初はドイツ得意の電撃戦で大勝を重ね、ドイツ軍はロシア内部に果敢に進軍していきました。

電撃戦
相手の体勢が整う前に、素早く最適な布陣に移動し、一気に敵を攻略する戦略。陸軍が戦車化され高い機動力を得たこと、無線通信による各軍の連携により実現された。

 

ところが、今度はソ連の伝家の宝刀・冬将軍がドイツを襲います。雪とぬかるみで電撃戦が封じられ、ロクな防寒装備もなかったドイツ軍は士気が低下していきました。
短期決戦を狙っていたドイツはずるずると長期戦に引きずり込まれていきます。

 

4年後、結局ドイツは伸びきった戦線を維持できず、大きな損害を受けて撤退します。

後半は圧倒的な劣勢だったにも関わらず、ヒトラーからは「断じて撤退は許さない」と厳命され、さらに被害を重ねたそうです。
4年間かけ、ドイツとソ連双方併せて3000万人近い死者を出した、人類史上もっとも犠牲の多い戦いとされています。

冬将軍
ソ連の厳しい冬の寒さのこと。ナポレオン遠征でも、日露戦争でも大活躍し、敵国の進軍を阻んだ。ろしあはさむい。

アメリカ参戦:真珠湾事件

ドイツがソ連侵攻を始めた年の冬、中立を貫いていた超大国アメリカを動かす事件が起きます。
そう、1941年12月、日本軍に寄る真珠湾攻撃事件です。

チャーチルはこの事件の一報を聞き、「これでアメリカが動ける」と歓喜したと言われています。

事実、もともと参戦したかったルーズベルト大統領はこの事件を国民に訴え、「参戦するべき」との世論を形成しました。

 

もっとも、日本はただ「虎の尾を踏んだ」わけではなく、電光石火の作戦によりまたたく間にイギリス植民地であった香港、マレー半島、シンガポールを奪っています。

当時のイギリスはバトル・オブ・ブリテンで全てを出し尽くし、植民地を守るための余力がありませんでした。

 

ともあれ、こうして“ドイツの猛攻に耐えるイギリス”の戦いは、世界を巻き込んだ大戦へと発展しました。
ドイツ・日本・イタリアの枢軸国に対し、イギリス・ソ連・アメリカの連合国という第二次世界大戦の構図が出来上がったのです。

イギリスの逆転攻勢:ノルマンディー上陸作戦

「バトル・オブ・ブリテン」を辛くも耐えきったイギリスでしたが、すぐさまドイツに反撃するだけの余力はありませんでした。

しかし徐々に国力を回復させ、ついに1944年6月、ドイツ領であるフランスへの上陸作戦を決行します。

今までの戦いは「イギリスへの上陸を阻止する」防衛戦でしたが、ついに「ナチスドイツ支配地域へ上陸して蹴散らす」という反転攻勢に出る時がきたのです。

 

イギリスに集結した連合国軍は、ドーバー海峡を渡り、フランス・ノルマンディーへの上陸を目指しました。
これがかの有名な「ノルマンディー上陸作戦」です。

映画で「守備隊が生き残っていた」カレーが距離的に一番近かったものの、占領したドイツ軍が厚く防御を固めていました。そのため、比較的防御の薄いノルマンディーが攻略目標として選定されました。

 

この作戦は今なお史上最大の上陸作戦であり、5000隻の艦船、1万2000機の航空機が参加し、一日に10万人が上陸をしかけました。

こう聞くと、圧倒的な戦力差でイギリス・アメリカら連合国側の楽勝であるかのように思えます。

しかし実際には、遮蔽物のない海岸で機関銃を持った敵が待ちかまえているわけで、連合国にも多大な犠牲を伴う戦いでした。

映画「プライベートライアン」の冒頭、海岸での無惨な戦闘シーンを覚えていますか?あれがノルマンディー上陸作戦です。

 

当初40日で達成されるはずの目標は、ドイツ軍の頑強な抵抗により、2ヶ月以上かかってしまいました。
一つの作戦として評価したとき、このノルマンディー上陸作戦は成功したとは言い難いものです。

しかしナチスドイツ軍はこの作戦で壊滅的な被害を受けた上、東のソ連戦線に加えて、上陸した西の英米戦線の両方から攻めたてられることになりました。

結果として、この戦いを境にドイツ軍は総崩れとなります。

 

翌年にはドイツ本国を侵攻され、ヒトラーは自殺。戦争は終結します。

チャーチルは名将だったのか?

こうやって結果を追ってみると、イギリスの逆転勝利はかなり薄氷の勝利であったことに気づかされます。

純粋な実力だけでは逆転は厳しかったけれど、「バトルオブブリテンでのドイツの戦略ミス」や「ドイツがソ連に侵攻したおかげでソ連も参戦」さらに「真珠湾が引き金となってアメリカ参戦」といくつもの幸運に助けられたおかげで逆転できたという側面があるのです。

 

そんな状況の中、

不利な戦況で頑固に徹底抗戦を訴え、

精神論で国民を鼓舞し、

国家を総動員したチャーチルは果たして本当に名将なのでしょうか?

なんだかコレって、第二次世界大戦当時の日本政府と似ていませんか?

 

もちろん「ドイツに攻められ仕方なく徹底抗戦」と「自ら無謀な戦争の火蓋を切った」という違いはあります。

仲が悪かった大国同士を共闘させた外交手腕など、“チャーチルだからこそ勝利を引き寄せた”と言える要素もあるかもしれません。

それでも、チャーチルと日本政府、戦争の結果が逆になっていたら確実に評価は逆転していたように思えます。

 

“勝てば官軍”、その言葉を改めて痛感しました。

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