SFアニメ映画『楽園追放』はテーマや設定が似ているだけでなく、随所に『攻殻機動隊』へのオマージュが描かれていました。また、二つの映画の描き方の違いに、興味深い点を見つけました。
あらすじ
地球はナノハザードにより廃墟と化した。
その後の西暦2400年、大半の人類は知能だけの電脳世界ディーヴァに生きていた。電脳世界に住む捜査官アンジェラは、
闘力を誇るスーツ・アーハンを身につけ地上に初めて降り立った。そして地上調査員ディンゴと共に地上のサバイバルな世界に旅立った。
公式サイトより
予告編
そもそも攻殻機動隊って?
『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は1995年に上映されたSFアニメ映画です。
技術の発達と荒廃で混沌とした近未来、ダークな世界観。これまでのSFのイメージを覆す衝撃と、高いクオリティで今なお高い人気を誇り、世界的にも評価された作品です。
映画『マトリックス』にも非常に大きな影響を与えたことでも有名。
この作品で特徴的なのは、全身を機械で作られた体にする『義体化』、そして情報処理の高速化のため脳を電子機器に置き換えていく『電脳化』です。
主人公の草薙素子は、全身を機械に置き換えた自分が人間であるのか葛藤を抱いたまま、『魂のようなものを持ったロボット』の事件を捜査します。
人間とは何か?
高度に発達した人工知能と、全身を機械化した人間はなにが違うのか?
その境界が揺らいだとき何が起こるのか?
…以上のように『攻殻機動隊』は、世界観もテーマも非常に『楽園追放』に近く、大きな影響を与えたことが伺えます。
むしろ、攻殻機動隊をライト層向けに描きなおしたのが『楽園追放』と言えるかもしれません。(これについては後述)
そして映画の中にもいくつもの『攻殻』へのオマージュが見て取れました。
1 乗り込むときの独特の姿勢
こちらが『アーハン』に乗り込むときの姿勢。
座席型ではなく、おしりを後ろに突き出す独特のポーズが印象的です。
いい尻をしていますね。
これで思い出すのが、『攻殻機動隊』での多脚戦車への乗り方。
ぽこっとおしりを突き出すポーズは、一見カッコ悪いこともあって、ほかの作品ではなかなかみられない姿勢。初めて観たときはなかなか衝撃的なポーズでした(笑)
わざわざ珍しいこの姿勢を採用しているのは、この姿勢で有名な攻殻機動隊へのオマージュだと思われます。
まさか尻のためじゃないでしょう。
2 ハンドルを回すシーン
地上に降り立ってから、アーハンを変型させるためにレバーを回していましたね。
この『両手でレバーを回すと金属性の円筒が突き出す』ギミックは攻殻機動隊でたびたび描かれていた演出です。ここも意図して同じギミックを採用したと思われます。
こじつけすぎ、偶然だと思われるかもしれませんが、根拠もあります。よく考えてみると『ディーバ』のテクノロジーは全てコンピューター制御。「レバーを回す」なんていうアナログなシーンは映画の中でここだけですよね。
電子操作で変型させればいい所を、あえてあのレバーを採用したってことは、なんらかの意図があるはず…
やはりあれも攻殻機動隊へのオマージュだったのでしょう。
3 中華街
まずこちらが楽園追放にでてきた街の食堂。さっきまで裏の人間と謎の言語で会話してたくせに、なぜか中国語がやたらとでてきますね(笑)
一方、攻殻機動隊で描かれた近未来でも、荒廃した下街の随所に中国語の看板がみられました。
なお、このシーンについては厳密には攻殻機動隊のオマージュとは言い切れない部分もあります。
というのも、攻殻機動隊の『中華街の混沌のような、荒廃した近未来』という描き方そのものが、1981年のSF映画『ブレードランナー』の影響を強く受けていると思われるからです。
『ブレードランナー』の世界観は衝撃的で、未来を「混沌さ」と「猥雑感」と「中華テイスト」で描く手法は以降のディストピアSF作品に大きな影響を与えました。攻殻機動隊はその代表格なんです。
だからこの中国語の看板は『攻殻』だけでなく、『ブレードランナー』以降の流れを汲んでいるとも言えますね。
人間と人工知能の境界について、描かれ方の違い
※これ以降『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』および『楽園追放 –Expelled From Paradise-』の核心部分のネタバレを含みます。ご注意ください。
攻殻機動隊での描かれ方
攻殻機動隊では、全身の義体化と電脳化を行った草薙素子と、意志が芽生えた人工知能『人形遣い』を対になる存在として描いています。
機械に近づいた人間と、人間に近づいた機械。
二人は物語の最後には『融合』を果たします。
まるで色気のないワードに感じますが、「融合したふたりの模倣子をばらまく」という状態は、生物学的には子孫を残す行為と同等です。
いわば、二人は異種間で結ばれてしまったのです。
(だからあの映画は、素子&バトー&人形遣いの三角関係の物語とも言えます。)
人工知能と、機械化した人間、二人を別種でありながら同格と判断したとも言えます。
スタッフの冷静で理知的な思考が伺えますね。
境界がどんどん曖昧になることへの不安と、混沌の予感を提起した作品でした。
楽園追放での描かれ方
一方『楽園追放』は、もっとライトで、直感的なものでした。
電脳世界の住人であった主人公アンジェラも、人間さながらの自我をもったフロンティア・セッターも、どちらも同等に人間として扱っていた点は「攻殻」と変わりません。
ディンゴは「肉体で感じる趣き」「管理社会ディーバへの疑念」を理由に電脳世界の住人になってしまうことを否定していましたが、電脳世界の住人そのものや、肉体を持たない人工知能にも人格を認めており批判的な態度はとりませんでした。
「人間の定義なんて、けっこう曖昧なもんなんだ。星空に夢を見たあんたなら、もう人間でいいんじゃないか。」
ディンゴの台詞には、この作品のメッセージが込められています。
境界を見極めようとするのではなく「境界なんて曖昧なんだ」と達観したとも言えます。無理に線を引こうとしないで、それを受け入れていこうという懐の深さとも言えます。
その上で、自分自身が電脳化してしまうことに対しては、ディンゴは直感的に、断固として否定しています。
これって一見矛盾した態度にも思えますが、ディンゴの判断基準は理屈じゃないと気づくとわかりやすいです。
つまり、相手が人間だと思えるなら、丸ごと全部受け入れていく。その上で自分の生き方は自分の感性を信じるということです
そう、ディンゴは自分の直感を信じているだけなのです。
そしてこの直感は、僕たち観客の感性ともそう違いはありません。
人間が電脳世界の住人となることに対して「なんとなくイヤだな」、自我を持って感情を理解する人工知能に対し「人間みたいだな」って思うのは、理屈を抜きにすれば当たり前の感情です。
難しい理屈よりもその直感こそを信じようという姿勢は、非常にシンプルで、かつストンと腑に落ちるものです。
このシンプルな結論もあって、この映画の後味は非常に爽快でした。
正直前半は、あまりいい映画とは思っていなかったんですよねー。
いかにも美少女&露出度&アニメ声なアンジェラがどうも受けつけられなかったり(尻はよかったけど)、やたらとテーマについて語り過ぎるのが苦手だったり…。
そういう教訓って物語からかすかに匂ってくるのがイイんだよ!ペラペラ喋り過ぎなんだよ!
しかし、終盤はド派手な戦闘シーン、緊迫した状況、持って行き方が多少強引ながら心を動かしてくれた主題歌と、エンターテイメントとしての魅力がたっぷり。『サマーウォーズ』のような熱いモノを感じましたね。ちょっとアニメが好きなだけのライト層にも楽しみやすい作品だったのではないでしょうか?
あと、なんとなくカラオケで熱唱したくなりました(笑)
まとめ
楽園追放は攻殻機動隊に様々なオマージュを送りながらも、未来について独自の解釈を提示してくれました。
同じテーマを扱ってはいますが、訴える層やニュアンスは微妙に異なります。
『攻殻』はSF愛好家や哲学肌の人間に、さらなる問題提起をしました。
『楽園追放』はライト層に向け、「直感を信じればいいのさ」と気軽に語りかけました。
『攻殻』が生まれて、はや20年。
その間にこういった結論の違いが生まれたと言う点はとても興味深いですね。