おそろしく長い/意味がわからない/面白くない/つまらない
などの評価も聞く作品ですが、一方でこの作品が高く評価されているのも事実。
なぜこの映画が評価されているのか、わかりやすく解説していきたいと思います。
1 エンターテイメントの食べ放題
まずこの四時間近い映画、一気に観ましたか?それとも何回かに分けて観ましたか?
僕は時間の都合で4回に分割して視聴しました。
どちらかというと、映画は途中で休憩とか挟まず、一気に観たい派なんですけどね。
ただ、途中で映画をとめる度に思うんですけど、この映画けっこう「続きが気になる…」って思わされるんですよ。
それも、面白いことに、一時間たつごとにに魅力のポイントが違うんです。
これ、重要なポイントです。
どういうことかと言うと、たとえば恋愛映画だったら
「これから二人はどうやって惹かれあっていくんだろう…」
という興味で2時間を引っ張りますよね?
007なんかのスパイアクションだったら
「どんな機転とアクションで敵を出し抜くつもりだ…!?」
という緊張感が物語の中核をなしていますし、
社会派のドラマであれば
「どんな手法でこの問題を描き出すのか。解決策は提示するのか…」
なんてところでしょうか。
もちろん、「ラブコメかつアクション」だとか「サイコサスペンスかと思いきや、実は社会派映画だった」なんて複数の要素を併せ持つ映画もあります。
ところが、この「愛のむきだし」は、映画のおもしろさを構成する要素が次々と、コロコロと移り変わっていくのです。
まず序盤は「神父の父」と「息子」としての親子関係、愛着問題に焦点を絞った人間ドラマかと思ってました。
このまま進んでも、十分見応えのあるドラマになったのでしょうが…
【親子ドラマパート】
ところが、途中から「盗撮」「パンチラ」をキーワードに一気にB級ギャグに走り出し、おバカなコメディ色が濃厚になります。
あの師匠の下りいる?あんなポーズとる必要ある?(笑)
同時に、バカでワルだけど根はいい仲間たちに恵まれ、アウトロー系の青春映画の雰囲気もでてきます。
【おバカコメディ&アウトロー青春パート】
しかし、ヒロインのヨーコが登場するやいなや、さらに方向転換!
「好きな子が女装した自分に惚れてしまう」
というベッタベタなラブコメ展開に!
それだけでは飽きたらず、「その女の子と一つ屋根の下で生活することに…」という男子の妄想御用達なお約束展開まで盛り込む過剰サービス。
【ラブコメパート】
そうかと思うと、今度はサイコパスじみた新興宗教の女幹部コイケが二人に干渉してきました。
なぜ彼女は彼の家族にまで介入してくるのか?
この家はどうなってしまうのか?
動機のわからない不安、足場が崩れていく焦燥感。
サイコサスペンスのような緊張感が高まります。
【サスペンスパート】
さらに宗教施設への潜入し情報を探り、
仲間の協力で日本刀と爆弾(チープ!!)を準備し、
満を持して単身突入!というトンデモ展開。
キルビルさながらのB級アクションを繰り広げましたw
【B級アクションパート】
どうでしょうか、中身がこんなにコロコロ変わる映画って、あんまりないですよね。
園子温監督は、明らかに『とにかく観客を楽しませる!!エンターテイメントだ!!』とばかりに、
あらゆる映画の魅力の要素を、ジャンルの垣根を超えて詰め込んでいます。
だからこそ、4時間も興味を維持し続けることができたのかもしれません。
ただ、このめぐるましい移り変わりのせいで、観客が戸惑ってしまうという負の側面もあります。
映画としてのスタンスが次々と移り変わるせいで、
「いったいこれは何の映画なんだろう…??」という疑問が先行し、素直に楽しめないのです。
さらに言うならば、それぞれのパートはそれなりにはうまく出来ているものの、
どうしても一つのテーマに特化した一流の映画ほどではないんですよね。
アウトロー青春映画としてみれば「パッチギ!」のほうが面白いし、
B級アクションの土俵では「キルビル」にかなわず、
サスペンス映画にしては「羊たちの沈黙」のような上質さはありません。
では、この映画は若干質の劣る「寄せ集め」なのでしょうか?(失礼!)
ある意味、そういっても良いかもしれません。
しかし同時に、それが魅力でもあるのです。
料理で例えるなら、この映画はそこそこ質のいいバイキング店、ビュッフェ形式と言えます。
高級ステーキハウスほどではないけどローストビーフもあるし、
名店ほどではないけど寿司も食べられるし、
老舗には負けるけど中華だってウマい、
スイーツだってけっこうイケる。
いろんな種類の魅力をあれもこれもと欲張って詰め込んだら、四時間の大作になってしまった、そんな映画なのです。
バイキングの料理が世界で最高!という方はあまりいません。
でも、バイキングにいくのが大好きな人はいっぱいいます。
同じようにこの映画も、心を震わせるくらい「めっちゃいい!」という映画ではないかもしれませんが、
「いろんな魅力が味わえて楽しい!」という人はけっこういます。
また、バイキングを食べ終わった後は「おなかいっぱいになった…特にアレがおいしかったな…」という気分になります。
この映画を観終わった後も同じです。
「この映画は○○な映画だ!!」と一言で表すことは難しくても、
「たくさん面白いシーンあったな…特に俺はあのシーンが好きだな…」とは思えるのです。
実際、監督の園子温さんも自ら「完全なエンターテイメント」と発言をしています。
「外から見ると非常に社会的であったり、アート的であったりするように見えるかもしれません。でも、自分の主張やメッセージよりも、とにかく物語を面白く展開するのはどういうことなんだ、ということばかりを考えていた」
「小さなころに見てわくわくした映画の記憶を大切にした。なおかつ、そういう映画を見たことがなくても楽しめる、いろんな好みの最大公約数を、観客の目になって考えた」
なるほど、幼き日に観たいろんな映画の魅力をつめあわせたから、
こんなバイキングのような盛りだくさん映画になったのでしょう。
また、今作を撮るスタンスとして、こんな発言もされています。
「あの当時、僕は(これからの映画体験は)すぐにホームシアター中心になると思っていた。映画館はなくなると。
そうしたら(映画は)本と同じになるから。たとえばドストエフスキを一晩で読むバカはいない。上中下の本(のどこか)に栞を差し込んで、翌日また読む。そういうふうに(映画を)ホームシアターで楽しむようになるんじゃないかと。
そうなると長い尺でも関係なくなって、『今日はここでやめておこう』と明日につなぐ。なら4時間の映画もオッケーになるんじゃないかと。
この映画は、「一つの物語を4時間ぶっ通しでみせる」というよりも、「色んな魅力を詰め込んで、4時間楽しませる」ことを考えられた映画なのです。
2 「愛」と「不器用」のカタルシス
特に邦画では顕著に感じるのですが、映画の根底には必ず「メッセージ」があります。
時にはあからさまにセリフにして、時には言葉にせずとも読みとって貰って、何かを伝えようとします。
時にはその教訓めいた言葉が、説教臭く感じたりもするのですが…
それがこの映画では、あんまりカッコよくないんですよね。
むしろ、暑苦しくて不器用です。
ヒロインがそれを滔々と語るシーンもあったりするし、
ユウが自分の気持ちを大声で叫びはするけれども、
どうにもスマートではありません。
普段「センスよくメッセージを伝える映画」に慣れているから、「なんだこれ??」と戸惑ってしまう部分もあります。
あるのはただただ「愛」という一言だけ。
もっと言えばこの映画は4時間全て、ユウの「愛する人を求める」という行動原理で成り立っています。
盗撮の下りも、ヨーコに出会ってからの全ても、全ては愛のためでした。
よくある邦画や小劇場系のような、センスの良さはありません。
しかし、その不器用さと純粋さが逆に効果的という側面もあるのです
不器用に、
強引に、
がむしゃらに、
変態的に、
暴力すら厭わず。
決して美しくありませんし、
もっとうまくやれよと思います。
バカだなあ、とも思います。
それでも、
愛する人を決して諦めない彼の心情について、誰も否定することが出来ないんです。
よくよく考えれば、彼は不器用ではあっても、やり方はスマートではなくても、決して目的地を間違えてはいないのです。
不器用だからこそ、純粋だからこそ、応援したくなるという心理もあるのです。
あるいは、現実の生活で心が荒んでいるときには、彼の単純すぎる熱量が眩しく魅力的に映るのかもしれません。
あなたも、どこか心の中では、不器用な彼を応援するきもちがあったはずです。
「愛」とは、世界共通の、普遍的で究極の答えです。
彼が、なんとかその究極の答えに近づこうとする姿は、バカげていたとしても、共感できる何かがあるのです。
そして、この『不器用さ』は、観客に『もどかしさ』を増幅させます。
終盤は立場を逆転し、ヒロインまで「愛」に向かって不器用に突き進みましたね。
我に返って逃走するユウと、逮捕されてパトカーの中で泣きじゃくるヨーコ。
不器用でがむしゃらすぎる二人。
映画の最初から最後まで4時間も全然うまくいかなかった二人。
むきだしの愛で突っ走ってきた二人が初めて報われ、互いの「愛」を実感したのが、あの手を繋ぐラストカットなのです。
ここですべてのもどかしさが解放されるのです。
「自分の愛を相手が受け入れてくれた!」
「相手も自分を愛してくれる!」
結局、愛の純粋で究極の姿って、これだけで十分なんですよね。
実際その一瞬だけで映画が終わってしまい、あまりの短さに驚きと、物足りなさは感じました。
でもよくよく考えれば、これ以上はどんな描写であっても蛇足なのかもしれません。
どうせどんな困難があっても、いつか二人はなんとかするだろうし、お互いを愛していくに違いありません。
だからこそ、あれだけで十分。
たったワンカットのハッピーエンドだけで”the end”を出したのです。
今まで溜めに溜めたもどかしさが一気に報われる、たったワンカットのカタルシス。
これが、この映画の一番の魅力ではないしょうか。
3 コイケの動機の全て
さて最後に、この映画で悪役として立ちはだかったコイケについて考察します。
なぜ彼女はユウにつきまとったのか?
なぜ彼女はユウを不幸にさせたかったのか?
なぜ彼女は最後に自ら命を絶ったのか?
この疑問の果てに、この映画の本質が隠されています。
この映画は、ついついユウとヨーコの二人の物語として考えてしまいがちです。
しかし実は、ユウとコイケこそが対になった存在ではないでしょうか?
二人はあまりに対照的なのです。
ユウが神父の父のもとで育ったように、コイケもクリスチャンの父親のもとで育っています。
物語を進めることだけ考えたら、コイケの父親はただの「虐待父」で十分なはず。
そこをあえて「クリスチャン」という属性をつけくわえているところに注目したいです。
また二人とも、「罪」というキーワードで父親から虐待を受けていました。
ユウは懺悔室で「もっと罪があるはずだ」と問いつめられるていました。
「罪を作らなければならない」いう意識を刷り込まれ、
心に『原罪(=存在そのものが罪)』という意識を抱えていました。
もう一方のコイケも父親に
「お前をみていると愛欲をかき立てる。いやらしいお前の体そのものが罪なんだ」
となじられ、殴られ、襲われて育っています。
程度の差はありますが、二人とも同じように「自分は罪なんだ」「愛や性欲はやましいことなんだ」という歪んだ意識を抱えることになります。
ただし、その後の人生は大きく異なります。
ユウは街で悪友と出会うことで、アウトローな社会ではありますが、外の世界で良き人間関係を構築し始めます。
逆にコイケは(父に過激な復讐をした後とはいえ)街で新興宗教の男性に出会ってしまいます。
ゼロ教会の世界で洗脳、利用を土台とした歪んだ人間関係の世界に入っていくのです。
もしも出会う相手が逆だったら…、
二人はお互いに逆の道を歩んでいたのかもしれません。
ユウが初めてコイケに会い、盗撮を咎められたシーンで
彼は「罪です」「原罪です」というセリフを発していました。
またコイケも、それ以降ユウのことを「原罪クン」と呼んでおり、このキーワードが彼女にとって印象的だったことを物語っています。
そこからコイケの、ユウに対する執着が始まるのですが、
彼女の執着の本当の理由はなんでしょうか?
それは彼女が命を絶つシーンにヒントがあります。
彼女は狂ってしまったユウを観て「やっぱりあんたも私と一緒なんだ」と呟きました。
このセリフから、コイケに関して3つのことが読みとれます。
1つめは、彼女が「ユウは自分と同類だ」と感じつつ、しかしその確信がなかったということ。
ユウは客観的にみて「原罪という言葉を口にする変態犯罪者」です。
彼女も原罪という呪縛に苦しめられ、悪徳新興宗教の幹部として拉致・洗脳などに手を染めており
他人事とは思えなかったのでしょう
自分と同類だと感じることに不思議はありません。
しかし、今の自分と比べると、ユウはあまりに明るい。無邪気に、幸せな世界に生きようとしています。
「…私と同じような人間なのに、なんでそんなに明るいの?」
彼女がユウに対して「きみに興味があるの」とつきまとっていたのは、自分と同類でありながら全く異質であることへの興味があったのでしょう。
あのセリフからわかる2つめの事実は、彼女の今までの行動は、その確信を得たいためだったということ。
あの局面で嬉しそうに「やっぱり」と言葉を発することから、
彼女が「彼も自分と同じ」という実感を持ちたくて、そのために今まで行動していたことを示唆しています。
ひどい話ですよね。
たったそれだけのために、全てを計画し、一家をとりこみ、ヨーコに憎悪を吹き込み、ユウを地獄に追いつめたのです。
しかしなぜ彼女は、「彼が自分と同じ」と確信したかったのでしょうか?
あまりに過酷な自分の半生について、“仲間”がほしかったのかもしれません。
「この世界で自分だけが不幸せ」なんて悲しすぎます。
でも、自分だけじゃないとしたら、少しは孤独が癒されるのかもしれません。
あるいは、幸せそうな彼を、道連れにしたかったのかもしれません。
彼女は今までは
「自分だけが特別不幸なんだ。だからこんなにも墜ちてしまったのだ。自分が闇に堕ちたのは環境のせいだった、仕方ない。」
そう思っていました。
しかし、自分と同じような境遇のユウは、明るく楽しく暮らしていたのです。
これではまるで、環境が悪いせいでなく、自分の心が弱いから闇に落ちたみたいです。
彼女は、ユウだって、真に不幸になれば狂ってしまうのだという確信が欲しかったのです。
そして、コイケの最期のセリフからわかる3つめの事実、
これこそが悲しくて重要なのですが、
「彼女は自分が狂っていることを自覚しており、そして心の底ではそれを嫌悪していた」
ということです。
彼女は、ユウが明らかに発狂しているのを見て、「やっぱり私と同じだ」と笑いました。
彼女はずっとずっと、自分も狂った人間であることを自覚していたのです。
彼女が狂ってしまったのは、十分理解できます。
父親に「女」として襲われて、頭がぐちゃぐちゃになってしまい、
思わぬ復讐のチャンスがやってきた時に過激すぎる手段をとってしまいました。
憎悪、罪の意識、絶望、残酷さ。
彼女が心のバランスを保つためには、狂気の世界に逃避せざるをえなかったのでしょう。
(もちろん、この件の前から少しずつ心は壊れていたのでしょうが)
彼女は「自分が狂ってしまった」という事実を平静に受け止めていました。
しかし同時に、発狂しているユウを見て笑っていたことからわかるように、「狂ってしまうことは正常なことではない、忌むべきことだ」とも理解しているのです。
そんな彼女が、ユウと出会ったのです。
ユウは、彼女と同じような境遇なのに、狂っていませんでした。
この出会いは、彼女にとって二つの側面がありました。
ひとつは、“幸せのモデルケース”としてのユウ。
「彼が狂気の世界に墜ちないのだとしたら、もしかしたら自分も発狂せずにいられたのかもしれない」
という一筋の希望の光明です。
もう一つの側面は、「境遇のせい」の否定。
「狂ってしまったのは悲惨な境遇のせいだけじゃなく、コイケ自身にも原因があったのでは」という自我の危機です。
きっと彼女の心の奥底から、
「本当に彼も狂気に墜ちないの?確かめたい!確かめたい!!」
という衝動が浮かんできたことでしょう。
その気持ちの根底になにがあったのか、彼女がどれだけ自覚的だったかはわかりません。
しかしいずれにせよ、彼女はユウを試したかったのです。
自分と同じような境遇に。
憎悪と絶望の底に突き落として、どうなるかじっと眺めたかったのです。
…幸か不幸か、ユウは彼女同様、狂気の世界にいってしまいました。
「一筋の光明」だと思っていた彼も、結局は絶望に勝てませんでした。
希望は打ち砕かれたのです。
そして彼女は自分に落ち度があったわけでもないと安堵しました。
自分だけじゃなく誰であろうと、絶望の果てには、壊れ、狂ってしまう他なかったのです。
彼女は賭けに勝ったのでしょうか、負けたのでしょうか。
いずれにせよ、彼女はこう悟ったのです。
「ああ、やっぱりこの世界はクソなんだ」
そうして、この世界に何の希望もなくなった彼女は、笑みを浮かべ、彼の刀で自らを貫いたのです。
…しかし残念ながら、彼女が最後に悟った真実は、半分でしかありません。
もう半分は、映画のラストで、彼女の“分身”であるユウ自身が示してくれました。
彼女はこう付け加えるべきだったのです。
「愛する人がいなければ、
この世界はクソなんだ」
誰かを、想うこと。
相手の幸せを願うこと。
それこそが彼女が最後まで気づけなかった、あるいは拒絶していた、世界の真実なのです。