この作品にどんな感想を抱きましたか?
「これはお母さんが悪いよなぁ」と思うと同時に、母親だけを悪役にするかのような描写に、どこか不公平感を感じた方も多いのではないでしょうか。
なぜそんな作品がアメリカ・ハリウッドの最高賞であるアカデミー作品賞を受賞できたのか?
その理由は、1980年当時のアメリカを知ると理解できてくるのです。
1980年のアメリカ
家庭を壊す母親。
どこか不公平な描写。
これらはいったい何を指し示しているのでしょうか?
実は1980年とは、アメリカ合衆国において離婚率が史上最高まで上昇した年なのです。
「現在のアメリカは離婚が多い」というイメージがあるかと思いますが、当時は現在よりはるかに離婚率が高かったのです。
下のグラフをご覧ください。赤い線がアメリカです。
現在こそロシアに抜かれていますが、1980年当時はぶっちぎりで世界最高の離婚率を示しています。
また、特筆すべきは、過去のアメリカと比較しても急激な上昇を見せているという点です。
1960年前後には、人口千人あたりせいぜい2件程度ですが、1980年のピーク時には5件を越えています。
わずか20年の間に、離婚率が2倍以上に膨れ上がったのです。
(なお、下の方の黒い線が日本です)
なぜ、こんなに急激に離婚率が上昇したのか。
様々な事情が関係していますが、最も大きく影響したのは以下の2つの要因と言われています。
女性の経済的自立
伝統的価値観の変化
言い換えると、
女性の社会進出が進み、女性自身の手で収入を得られるようになり
なおかつ“女性は男性に付き従うべし”“夫婦は離婚してはいけない”という古い価値観が崩れてきたことです。
もちろん、それら自体は当然悪いことではありません。
しかしあまりに急激に社会が変化し、家族のあり方も変化していったため、
旧態依然の考え方をしていた多くの男性は戸惑い、取り残されてしまったのです。
当時の他の受賞作品をみても、その影響は強く感じられます。
当時の作品は離婚問題ばかり!
例えば、映画「普通の人々」の公開の前年にアカデミー作品賞を受賞したのは、映画『クレイマー・クレイマー』です。
この作品は、離婚問題と向き合った映画として有名です。
仕事ばかりで家庭をかえりみない夫と、社会に出て働きたい妻との間で離婚協議が始まり、子供の親権を巡って争う…というあらすじ。
ストーリーを読むだけで、いかに家族崩壊が当時の重要な社会問題であったかをひしひしと感じます。
育児に不慣れな父親が、ご飯を食べずにアイスクリームを食べたがる息子をきちんと言って聞かせることすら出来なかったのが、なんだか印象深かったです。
また、『普通の人々』とアカデミー賞を争ったのは、ロバート・デニーロ主演の『レイジング・ブル』です。
観てない人には「ボクシング映画?ロッキーみたいなものかな?」と思われるかもしれませんが、この映画の核はボクシングの戦いそのものではなく、主人公が家族に去られていく悲痛さです。
「女は男に従うもの」といった古い価値観で横暴に振る舞う主人公は、次第に奥さんから愛想を尽かされていきます。
『レイジング・ブル』の主人公の哀れなところは、彼なりに“古き良き父親像”を忠実に務めていたつもりなところです。
家の外で仕事に励み、家の中では厳格に振る舞い、妻を愛していたつもりだったのに、いつのまにか家庭で居場所を失っていたのです。
(ただ、現代の僕らから見ると、文句なしに「ひどい夫」なんですけどね…。)
「クレイマー・クレイマー」、「レイジング・ブル」、そしてこの「普通の人々」の三作品は、どれも当時のアカデミー賞で高い評価を受けた名作です。
いずれも家庭が崩壊していく様子を描いていますが、それだけでなくいくつか共通した特徴を持っています。
まず母親が感情的で、妥協をせず、母親から別れをつきつけること。
もちろん、アメリカの典型的な女性像という面もあるでしょう。
しかし、離婚や家庭崩壊という夫婦二人の問題を描いている割には、「女性の側に我慢が足りない」という描写に偏っている気もします。
実際のところは、「我慢の限界が来て突然爆発した」というのが正しいのでしょうが…
そして、ラストシーンは父親で締められること。
「クレーマー・クレーマー」、「レイジング・ブル」はそもそも父親が主人公な映画ですし、「普通の人々」においてもラストは主人公と父親の和解のシーンでした。
つまりこれは事実上、父親が主人公であることを示唆しています。
特に、母親の顛末を意識してみると良く分かります。
どの作品も父親に“だけ”スポットライトを当てているのが顕著です。
『普通の人々』では露骨に父親と息子だけに和解が訪れるハッピーエンドを描いていますが、母親のその後はヒントすらありませんでしたね。
『クレイマークレイマー』でも、母親が「自分が間違っていた」というセリフを口にしており、父と子供に明るい未来が訪れる描写です。
ここでも、母親のその後は描かれません。
『レイジング・ブル』は少し毛色が違い、父親が家族を失っていく様を容赦なく描いています。
しかし、映画そのものは終始「哀れな父親」の描写に徹しており、母親がどうなったかにはほとんど関心が向けられません。
そう、どの映画も、男性が男性目線で作った、男性のための映画なのです。
(念のため調べてみましたが、3本とも脚本家・監督・プロデューサーは全員男性でした)
男性ばかりが評価する映画界
なぜこれだけ「男性寄り」な作品ばかりが、米国映画界の最高賞であるアカデミー賞で評価されるのでしょう?
それもそのはず、米国アカデミー賞選出に携わる人間は、ほとんどが男性なのです。
アカデミー賞は「映画芸術科学アカデミー」という組織によって選出されますが、その会員は基本的に映画業界人。
会員になるには新しい会員の推薦や承認が必要という、かなりクローズドな組織です。
さらに会員の男女比はかなり偏っており、
2012年の時点でも、男性が77%、女性が23%と3倍以上の差がありました。
ちなみに1927年の創立時にはなんと男性94%、女性は6%に過ぎません。
「普通の人々」が公開された1980年当時のデータはありませんが、かなり控えめに考えても5倍ほどの男女差はあったと考えていいでしょう。
アカデミー賞は、基本的に男性が選ぶ賞なのです。
だからこそ、男性目線の作品がウケたのでしょう。
つまり、母親が悪役扱いの「普通の人々」が高く評価されたのは、当時の男性の鬱憤の現れと言えるのです。
もしも当時の女性がアカデミー賞の選出にもっと関わっていたら、「普通の人々」の受賞はなかったのかもしれませんね…。
当時の離婚事情、そしてアカデミー賞の裏側を知ると、なぜこの作品が高く支持されたか、当時の男性たちの心の内を知ることが出来ます。
映画『普通の人々』の不公平な描写は、当時の男性の不満感の現れなのです。
家族の形が変わる不安や、変化に対応しきれない不安が大きかったのでしょう。
もしかしたら一部には権利を求める女性の「行き過ぎ」もあったかもしれませんが、やはり当時は、女性の権利を主張することが、十分に歓迎されていなかったのだと伺えます。
果たして、今の日本はどうでしょう?
どこかで従順な女性を求めていないでしょうか?
40年も前の映画から、あまり変わっていないとは思いたくないですね。