「異形のクリーチャーとの純愛」という刺激的なキーワードについつい反応してしまいますが、よくよく考えるとそこまで異形のモンスターじゃありません。
目は顔の正面についているし、
瞬きもします(人間とはちょっとやり方が違いますが)
半魚人であるなら、もっともっと本物の魚のような顔であってもいいはずです。
目が顔の左右についていて、瞬きしないで、口がぽかんと開いているあの顔です。
…うん、映画の彼よりキツいですね
また体についても、鱗があったり水掻きがついていたり、粘液があったりしますが、
むしろ細マッチョイケメンです。
彼の「人間っぽくなさ」はせいぜい仮面ライダーと同レベルといっていいでしょう。
仮面ライダーを「人間じゃない!化け物!」と忌避する人間はあまりいません。むしろ子供や大きなお友達の人気者です。
一見異形な彼も、同様です。
十分に「人間として愛される」レベルにあるのです。
いやむしろ、製作陣が意図してイケメンにしたと考えるべきでしょう。
着ぐるみ時代の特撮ならまだしも、この映画は2017年の作品です。
やろうと思えばもっといくらでも怪物っぽくできたはずです。
しかし製作陣は、彼をおどろおどろしい怪物に仕上げず、ちょっとアクセントがあるイケメンくらいに留めました。
ストライクゾーンギリギリを攻めず、内側に置きに行ったのです。
まあ、考えてみれば当然ですよね。
もし彼がタコのような八本足だったら?魚そのものの顔だったら?
観客はこんなにスムーズに感情移入できたでしょうか。
いくらなんでも無理!と拒否反応が出てしまうかもしれませんからね(笑)
万人に受け入れられるのは大事です。
映画だって商売ですからね~。
さて、ここが実は大事なポイントです。
「異形のクリーチャーとの純愛」より「ちょっと異形なイケメンとの純愛」の方が万人に受け入れられるという点は、重要な事実を指し示しています。
観客にとって大切なのは、「異形」であることではありません。
彼が「無垢な存在」であることなんです。
観客はいつでもイノセントな恋物語を求めます。
なんだかんだいって、無垢な心の男女が純愛を育む物語を信じたいのです。
しかし一方で、僕らは自分がどんな人間かを知っています。
周りの人間がどんなやつかも知っています。
いい大人になってもイノセントな奴なんているわけないと知ってしまったのです。
ですから普通、映画に無垢なイケメンや、無垢な美女なんて登場させたら、全く現実感のない夢物語になってしまいます。
ところが、そういう意味で「半魚人風イケメン」というのは非常に都合がいいわけです。
何しろ僕らは無垢じゃないイケメンは山ほど知っていますが、イケメンな半魚人の知り合いは滅多にいません。
「彼は半魚人だから心がイノセントなんです!」と言われたら
そんなもんか、と受け入れざるをえないのです。
同時に、この映画はヒロイン・イライザもとってもイノセントでした。
もっと言えば、無垢で、心がきれいで、健気で、善人なのです。
…人間できすぎじゃないですか!?
彼女が言葉を発しないから気づきにくいですが、あまりにもいい子過ぎます。天使です。まるで天空の城ラピュタのシータです。
宮崎駿の好みの塊。
個人的には、絵描きのおじいちゃんと並んでテレビを見ながら、肩にもたれかかるシーンに、すっごくキュンってしました。
女性が恋人でない男性に、無邪気に心を許して甘える…。
なんというイノセント!!!これが萌えでしょうか。
普通はこんな女性が映画に登場されたら、「ぶりっ子」「不自然」「あざとい」と批判されそうなもんですが、なぜだかイライザにはそんな批判はありません。
もちろん彼女を演じたサリー・ホーキンスの醸し出す魅力もあるわけですが、彼女が発話障害だという点が無関係とは思えません。
イライザの台詞は手話によるたどたどしい言葉だけで、それがあたかも幼い子供に思わせるのかもしれませんね。
※一方で、エンターテイメント作品では障害者を性格よくイノセントに描きすぎ、という指摘もあります
また面白いことに、グロテスクさを代表する色とも言える蛍光グリーン。
映画にはこのグリーンが至るところで使用されています。それも、人間サイドばかりに!!
(ゼリーデザート、ストリックランドのキャンディー、冷蔵庫いっぱいのタルト、ハンドソープまで。)
つまり製作陣は決してグロテスクな怪物を描こうとしていなかったのです。
おぞましいのはむしろ人間のほう。(※)
彼らは徹頭徹尾、この物語をイノセントな男の子とイノセントな女の子の恋物語にしようとしたわけです。
それだけでは面白味にかけるので、ちょっと性的なアクセントを添えてみたりして。
※たしかに敵役のストリックランドさん、おっそろしく悪いやつでしたね…。ザ・おぞましい悪人。
わざわざ自分の指をちぎるシーンなんて、あえて印象を悪くするために追加されたかのようです…。
それにしても、見た目を魚っぽくしたり、声を出せないと言うハンディを負わせたり、
僕らは「イノセントであること」に違和感をなくそうとあの手この手を講じます。
たとえば「人の温もりを知らない近未来の少女型戦闘サイボーグ」だとか「宇宙からやってきた意志疎通の難しい生き物」だとか。
彼らはきっとピュアで、お互いの存在を慈しみ、触れあうだけで幸せを感じあうに違いありません。
それにしても、なぜ僕らはイノセントな感情に憧れるのでしょう。
もちろん僕らにだってそんな感情がないわけではありません。
初めて恋人と抱き合った瞬間の興奮と多幸感は、誰でも覚えていることでしょう。
それなのに、普段ではさっぱりそんな感動は忘れてしまっています。
無くなってしまったわけではないけど、すっかり忘れてしまいました。
僕は妻に、触れようと思えばいつでも触れられます。
あまりにも簡単に触れられるから、その有り難みを忘れているのかもしれません。
どうしても、ついつい。
絵描きのおじいちゃんの冷蔵庫を思い出します。
彼は、くそまずい蛍光グリーンのパイをあれほどたくさん買わなければ、意中の人に話しかけることすらできませんでした。
彼にとって、もしも自由に手をつなぎ、抱き合うことができたらどどれだけ幸せなことでしょう。
きっと、それだけのために全てを投げうってもいいとすら思っているでしょう。
僕らが欲してやまないのは、すっかり忘れてしまったそんな感覚です。
愛する人と一緒にいるだけで幸福で満たされるような。
抱き合えたその瞬間に、世界がとまって欲しいと願うような…。
映画って、良いですね。
いい映画は、愛することの素晴らしさを思い出させてくれます。
あのイノセントな、何にも代え難い喜びを思い出させてくれます。
でも、思うのです。
思い出して浸るだけじゃ、きっと意味はないと。
僕も妻に対して、イノセントな愛情を思い出すべきなのです。
毎日は無理でも、定期的に。
いい映画を観終わった夜くらいは。
そんなわけで、今から寝室に行ってこようかと思います。
それでは。良い夜を。
追記:奥さん既に寝てたよ…(´・ω・`)
サリー・ホーキンスさんの魅力溢れるもうひとつのシェイプオブウォーター