嫁と二人で、映画「きいろいゾウ」を観ました。
僕は原作小説を読んだことがありますが、嫁は未読。
まったく知らずに「なんか面白そうだからこの映画観てみたい」とチョイスしていました。
二人の感想を交えながら、映画と小説の違い、物語の考察・解説をしていきたいと思います。
原作と映画版の大きな違い
400ページ以上ある小説を2時間の映画にまとめる都合上、さすがにいくつもの要素がカットされ、あるいはボリュームを小さくしていました。
その中で、原作を読んだ僕が一番大きな違いを感じたのが、「ムコさんの苦悩」がとてもボリュームダウンしてしまったことです。
ムコさんの苦悩
映画でのムコさんは、たいして苦悩を抱いている描写がありませんでした。
どちらかというと「妻の気持ちに鈍感」といった間抜けな役回りであったように思えます。
正確には、ツマが日記を読んでいた事実に打ちのめされていたり、昔の恋人を引きずったり、彼なりに悩んではいたようです。
しかし、彼が悩んでいたとか、どれもナレーションで説明されて初めて気づくんですよね…。
僕の嫁も「いきなり『僕ら夫婦は日記を通してしか会話できなくなった…』って言いだした時は、『え!?そうだったの?』ってすごくびっくりした」と指摘しております(笑)
一方原作では、ツマの悩みよりむしろムコさんのほうが重症で、心が深い深い闇に囚われている感じが出ています。
400ページの小説のうち、160ページぐらいは、ムコがずぶずぶ病んでおります。
不思議な感性を持ったツマがどこかに行ってしまうのではないかという不安。日記を読まれていることへの猜疑。それをお互いに言い出さないまま二人の生活を続けるという異常な状況への混乱。
そこにさらに、仕事のラッシュ、足利さんの死、昔の恋人の夫からの手紙と重なり、彼の精神がどんどん不安定になっていきます。
また昔の恋人さんも、
- 生来障害を抱えており、隔離されて暮らしていた。
- 妊娠中に通りすがりの自殺を目撃してしまい(この辺曖昧)大きなショックを受ける。
- そして産まれてきた子供は重病。
- それ以来ずっと精神に変調を来している。
と、心療内科的にヘビー級な逸材。
そんな彼女とナイ姉ちゃんのトラウマを抱えた彼が、不倫をしちゃうわけですよ。うわあ。二人でずぶずぶと心の闇の深淵に沈み込んでいくのは目に見えています。
原作から、一部だけ抜粋します
ムコさんが書斎から出てこなくなって、八日も経つ。
引きこもり、とゆうやつじゃないよ。ごはんも食べる。お風呂にも入る。アレチさんとセイカさんと、どんじゃらの練習もする。でも、ムコさんはいつだってぼんやりしている。それはまさに、心ここにあらず、そしてその心とゆうやつを、書斎においてきてしまったみたいだ。
ここだけ読んでも、ムコさんがいかに病んでいるかが分かるかと思います。
もしかすると、映画の尺ではこの辺の闇を描ききれない、あえて描かないという選択だったのかもしれません。
ただ、向井理には荷が重かったという面も否定できません。
例えばですが、あるいはいっそムコ役がリリー・フランキーだったら、ムコの心の闇を上手に演じられではないかとか、そんなことも考えます。
もっとも、当時人気絶頂な向井理と比べると、集客力の面では落ちてしまうかもしれませんが…。
ムコさんの苦悩が伝わってくるかどうか。映画と小説の決定的な違いはこの辺りにあると感じています。
夫婦の生活
また、原作と映画では夫婦の描き方に少し違いがあります。
原作では二人とも「ビールは絶対にかかせない」と断言するほどのビール党です。しかし、映画ではほとんど酒を飲んでるシーンがありません。
また、原作ではわりとよく「セックス」の話題がでてきますが、その辺も全カットです。
なんていうか、原作では下町感とでも言うべき生命力溢れる生活感がありました。(余談ですが、この“下町感”は西加奈子作品の多くに共通する魅力でもあります。「円卓」とか「漁港の肉子ちゃん」とか。)
一方映画版では、観葉植物が飾られ、庭も綺麗に整えられ、家の中はホコリひとつありません。
(うちの嫁は「書斎があれだけキレイなのは違和感がある」と指摘しました。悪かったな汚くて。)
映画のツマとムコは全体的にセンスが良く、品のいい夫婦・おしゃれな田舎暮らしといった雰囲気でした。
僕は西加奈子作品のファンなので、原作の醸し出す“下町感”が大好きです。
でも宮崎あおい&向井理でビジュアル化されたナチュラルライフも、好きな人にはたまらない魅力があると思います。
この辺は個人の好みでしょうか。
ツマ・宮崎あおいについて
全裸ダッシュを再現した点は評価する(`・ω・´)b
彼女の起用は、僕ら夫婦で非常に評価が分かれた点です。
よかったのは、ツマの「だんだん壊れていく」様子が、迫真の演技で再現されていたところ。
この辺やはり演技力で飯を食ってきた女優さんです。
昔から常々、宮崎あおいは不機嫌な顔にこそ魅力があると感じていましたが、まさにそれ。前半の天然キャラより、後半の心壊れてるキャラのほうが魅力を感じました。
ただ、相方の向井理が「ただ鈍感な男」に見えてしまったため、「なぜ彼女が不機嫌なのか」が伝わりにくかったのが少々残念ではありますが。これは向井理が悪い。
一方うちの嫁が批判していたのは「天真爛漫な演技があざとすぎて好きになれない」という点。ううむ、たしかに…。
嫁曰く、
「普通回覧版を、あんな風に両手伸ばして受けとらへんで。あざとい!」
「雨の庭で『おかえり♪おかえり♪』ってクルクル回ってるとかどんだけ狙ってるねん!あざとい!」
「わざわざ声色変えて下手な関西弁まで使いおってからに!あざとい!」←南大阪出身
「だいたい、○○さん(←僕)が宮崎あおい好きってとこからして腹が立つねん!あざとい!」
…半分くらいは理不尽な言いがかりのような気もするのですが。
しかし長年宮崎あおいファンな僕からみても、前半の天然ぶりっ子はやりすぎな感がありました。そこまでせんでも。
まあ、「天然で魅力的な女の子を自然と演じる」ってそもそも矛盾してますし、難しいのかもしれません。
特に女性はぶりっ子に厳しいですからねーw 下手な演技は一発でばれちゃうようです。
その他カット・変更された要素
映画では時間的な都合上、脇役のエピソードが大幅にカットされていました。ほぼ、ツマとムコさんの話の一本道。
原作では脇役のエピソードがボディーブローのようにじわじわ「夫婦ってなんだろう」というテーマを掘り下げてにしてくれました。
髪の長い女性の幽霊さんの話。→すべてカット
ジェニーの祖母の話。→すべてカット
漫才師「つよしよわし」の話。→すべてカット
メガデス。→すべてカット。
映画:ソテツ → 原作:ヨル
原作ではソテツに「ヨル」と名前を付けていたのに対し、映画では単純に「ソテツ」と呼んでいます。
まあ、映画の短い尺の中ではその方がわかりやすいですしね。
映画:ヤギのコソク → 原作:チャボのコソク
非常にどうでもいい変更がされてます(笑)
おそらく、チャボがイメージ通りの動きをしてくれないとか、鳥アレルギーの人がいたとか、そんな理由でしょう。
ジェニーの扱い
原作ではもっとひどかった(笑)
顔も不細工で、性格ももっと悪く、大地君への誘い方ももっと強引で、痛々しい。「お医者さんごっこしよう」「女学生ごっこしよう」と、下心むき出し。
映画では少しマイルドになってましたね。
これは実際に子役を起用するからには、あまり不細工や下品さを強調すると、その子役自身への攻撃になってしまうからかと思われます。
虹色の羽根が落ちてくるシーン。
唯一原作になくて、映画で追加されたシーンがこれです。
夜空から降ってきた羽根を観て、ツマが「ムコさんや!ムコさんの羽根やぁ~♪」って喜んでたアレです。
正直言って、なぜこのシーンを追加したのか、どうもスッキリしません。
ここだけ、はっきりと非現実的な出来事なんですよね。
原作では物語全編を通して、(「生き物との会話」を除けば)意外と非現実的なことは起こっていません。いや、唯一髪の長い幽霊のエピソードは別か?
しかし映画版でわざわざこの虹色の羽根のエピソードを付け加えた意味って、なんだったんでしょう?幻想的ななにかを付け加えたかったのでしょうか?
なお原作では、しれっとムコさんが帰ってきて、二人とも何をいうでもなく、なんとなく普段の生活に戻っています。それでも二人の心境の変化はしっかりと感じて、それがよかったのですが。
「きいろいゾウ」について
タイトルにもある「きいろいゾウ」。この扱いも微妙な差があります。
映画では
- ツマ→きいろいゾウの夢を見たことがあると大地君に話す
- オット→一番好きだった絵本は「きいろいゾウ」だと大地君に話す
- 大地君→そのことをツマに伝える
原作では
- ツマ→一番好きだった絵本は「きいろいゾウ」だと大地君に話す
- ムコ→一番好きだった絵本は「きいろいゾウ」だと大地君に話す
- 大地君→ツマにはほのめかすだけで、はっきりとは伝えない
個人的には、原作のほうがなんとなく「夫婦」って感じがして好きです。
なお、映画ではきいろいゾウの声が向井理(ムコさん)になっています。
ここはおもしろい工夫だなって思います。
ツマの「生き物と話ができる」の意味するものは?
映画を観終わった後、嫁に「ツマが生き物と話をしてたのは何を意味していたの?」と聞かれました。
しかし、原作を読んだ僕も、あんまりよくわかっていません。
そこでもう一度原作を読み直してみました。
ツマが生き物と話ができるようになったのは、いつか?
これはしっかり明言されています。入院中に「きいろいゾウ」の夢を見てからです。
では、ツマが話ができなくなったのは、いつか?
それがいまいちはっきりとわかりません。
最後に生き物との会話が出てくるのは「しらかば祭り」の直前。
その後、大地君が帰り、ムコが担当していた足利さんの死があり、気がついたらツマはおしゃべりができなくなっていました
ここからは僕の想像になります。
ツマの「生き物と話す」力は、入院中の極度の孤独感が生み出したものではないでしょうか。
いわゆる「イマジナリーフレンド」のようなものです。
(その証拠に、生き物たちはツマの知らなかった事実を話すことはありません。)
イマジナリーフレンド
多くは本人の空想の中だけに存在する人物であり、空想の中で本人と会話したり、時には視界に擬似的に映し出して遊戯などを行ったりもする。
一人っ子や子供に見られる症状だが、大人になってもイマジナリーフレンドが存在する場合もある。
大半が自分自身で生み出したケースが多く、本人の都合のいいように振る舞ったり、自問自答の具現化として、本人に何らかの助言を行うことがある。反面、自己嫌悪の具現化として本人を傷つけることもある。
それが大人になっても残っていたのは珍しいですが、妻の情緒不安定さを考えると、どこかで不安を感じていたという可能性も有り得ます。
そして、この生き物の声が消えてしまった原因も何となく想像がつきます。それは、やっぱり孤独感。
ムコさんと一緒に住んでいるのに心が通っていないことで、彼女はこれまでにないほどの孤独を感じてしまったのでしょう。
それこそ、孤独感を癒すために生み出した「イマジナリーフレンド」ですら役に立たないと感じるほどの、絶望的な孤独感だったのではないでしょうか。
さて、ムコがツマの元に返ってきて、二人の関係が元に戻ったとき、ツマはもう「生き物たちとの会話」は聞こえなくなっていました。
でもきっとこれは、もう必要なくなったからです。
ムコはトラウマを乗り越え、ツマの元へ帰ってきました。
いろいろあって、お互いがなにより大切だと再確認したこと。
なにより、相手がどこにもいかないとお互いに安心できたこと。
本当の意味で「孤独」から解放されたから。
相手のことを心から信頼できたから。
だから、もう「イマジナリーフレンド」の声が聞こえる必要はないんです。
お互いに、揺らぐこと無い安心を。夫婦って、そういうものですよね。
そんなことを考えさせてくれた物語でした。