この映画の核のひとつが“マイノリティの生きづらさ”であることに異論はありませんが、もう一歩踏み込んで考察してみましょう。
マイノリティを応援する一方で、小児性愛者をしっかりと断罪しているのがこの映画の重要なポイントなのです。
監督の訴えたかったメッセージ
昆虫食は同性愛の比喩?
まずはどのようにマイノリティを描いてきたか見直してみましょう。
主人公のティーナの外貌、昆虫食、性的志向などを通じて、マイノリティな人々を、言い換えれば「他人と違うことを悩む人間」を描写していました。
特に昆虫食に関する描写は、同性愛者の心情の比喩ではないかと考えてみるとわかりやすいです。
昆虫食に対してティーナは特に発言をしていませんでしたが、映画冒頭の、彼女が昆虫をじっとみつめるシーンが気になります。
このシーンを改めて見直してみると、「もしかしたら、もともとティーナには“食べてみたい”という本能的な衝動があったのかも…?」と思わされます。
それでも、おそらくヴォーレに出会うまでは昆虫を口にすることはなかったでしょう。
ティーナに備わった人間世界の常識では昆虫など食べるべきではありません。彼女は本能的な衝動を不思議に思いつつ、無意識に(意識的に?)セーブしていたのでしょう。
そう、まるで同性愛の衝動を自覚したばかりの若者のように、です。
また、ティーナの性的志向について。
衝撃的な行為の描写につい目がいってしまいがちですが、同居人のローランドとの行為を拒むんだり、染色体異常を理由にしている描写も気になります。
この描写も、同性愛者が本能的に異性との行為への衝動を持たないことと重なって見えてきます。
マイノリティの辛さも描く
映画前半のティーナは、自らが“人間世界の常識的な幸せ”に当てはまらないと悟った上で、諦めたように人生を過ごしていました。
それでも“寂しいから”とローランドを同居人として受け入れているのが、切なくてたまりません。
たとえ本当の愛情を築いていない相手で、陰で他の女性と関係をもっていて、おそらくは、「犬の飼育に都合がいい環境をタダで提供してくれるから」と利用しているだけのクズ男だとしても…
それでも彼女も孤独には耐えられなかったのでしょう。
マイノリティへのメッセージ
それと比較して、全てを自覚してしまい、受け入れ、解放的な笑顔をみせる映画中盤のティーナ。
マイノリティの人々への、“ありのままの自分でいいんだ”という監督からの強いメッセージを感じました。
そして重要なのが、ラストの描写です。
自然と調和し、昆虫食を続けながら暮らしていくティーナに、思いがけず赤ん坊が届きます。
ご飯を食べた赤ん坊が笑顔を見せてくれた時の、ティーナの幸せそうな微笑み。
ここで映画は幕を閉じます。
このささやかな描写に、監督の思いが込められているのだと思います。
なぜヴォーレがこの子どもをティーナに送ったのかは後で論じますが、
今大切なのは、子供を手に入れたティーナは、きっと幸せな生涯を送るだろうということです。
子供が育つのを眺め、ふれあい、ときには悩み、
最後には「色々あったけど、いい人生だったな」と、子供に看取られながらベッドで息を引き取るのです。
…これでもう十分に、素敵な人生と言えるのではないでしょうか。
そして、ティーナが今後手に入れていくだろう幸せは、彼女がどうしても順応できなかった“人間世界のふつう”における幸せと比べても、何一つ遜色ないのです。
監督がラストシーンに込めたメッセージは、“たとえ周りと違っても本当の幸せは手に入れられる”ということです。
日々を大切に過ごすこと。
誰かを慈しむこと。
必要なのはそれだけなんだと。
この映画は徹頭徹尾、マイノリティな人々に寄り添っているのです。
それを示唆するためか、映画の中でも養子に関連するエピソードがでてました。(目的は不純でしたが…)
小児性愛者への厳しい態度
もう一つ注目すべきは、小児性愛者のエピソードです。
この映画は、LGBTをはじめとするマイノリティに寄り添う一方で、小児性愛者を“みのけもよだつ行為”と断罪していたのが印象的でした。
もちろん、同性愛自体は悪いことじゃない反面、児童ポルノは明確に犯罪です。
両者が異なる扱いを受けることに、違和感はありません。
ですが、乱暴な言い方ではありますが、小児性愛者もまた“少数派な性的志向”であることに違いはないとも言えます。
もし強姦でなく同意があるのだとしたら、同性愛者と小児性愛者の間にある違いは何でしょうか?
自然と同性を愛することは賛美され、自然と児童を愛することを邪悪とされるのはなぜでしょうか?
その答えは、そう難しくはありません。
おそらく誰もが無意識に理解していることですが、
両者で間違いなく違うのは、相手の意志と幸せを尊重する気持ちです。
同性愛者の恋人は、お互いに好意を持って初めて関係が成立しますが、小児性愛者は一方的です。
ティーナとヴォーレは歓喜して互いを求めあいましたが、映画の中ででてきた児童ポルノ動画は子供が終始泣き叫んでいました。
では両者の好意の上であれば児童との関係は許されるのか?という疑問が生まれるかもしれませんが、それでも禁忌であることに違いはありません。
一般的に児童は判断力が成長途上であると見なされます。
自分の人生に責任が持てる判断力がついていない子供を“誑(たぶら)かす”ことは、読んで字のごとく、「言」で「狂」わせている悪事なのです
この映画にあえて児童ポルノのエピソードを盛り込んだのは、「普通と違うことを賛美する」のと「何でもアリ」は全然違うと、しっかりと区別したかったからに他なりません。
昆虫食、トロール同士の性行を通じて、「たとえ他人と幸せの方向が違っても、個人の幸せは素晴らしい」と応援しています。
その一方で、自身の快楽のために誰かの気持ちを踏みにじり、犠牲にする行為は許されない“悪”だと示しているのです。
ティーナは、ニンゲンに復讐を企てているヴォーレに誘われたとき「邪悪であることに意味を見いだせない」と拒絶しました。(いい言葉ですね)
それでは本当の幸せにはなれないと、わかっていたのでしょう。
本当の幸せとは?
個人の願望の追求では本当の幸せになれないとしたら、どうすればいいのか。
その答えこそが、ラストシーンで示された「他者を慈しむ気持ち」に繋がるのだと思います。
僕自身が妻と子供の幸せに最大の喜びを感じる人間だからそう思うのかも知れませんが、
人生における本当の幸せとは、誰かを幸せにすることに他なりません。
この映画の根幹となるテーマは、ただのマイノリティへの応援だけではありません。
ただ自由に、自分らしく生きるだけでなく、その向こうにある“本当の幸せ”にまで言及した作品なのです。
ひょっとしたら、ヴォーレが彼女に子供を贈ったのは、「どれだけ困難であろうと、誰かを傷つけることなく幸せになりたい」という彼女への餞(はなむけ)ではないでしょうか。
まぁこれは、根拠もなく、僕自身の願望みたいなものですが…。