この映画は『破滅への二時間』という小説を原作にしていますが、
キューブリック監督は映画化にあたって
「原作小説のようにシリアスに描くよりブラックコメディとして描いた方がいい」
と判断したそうです。
ブラックコメディを強調するため、登場人物もそれぞれジョークを交えた名前にされています
「“キング”コング少佐」
「ジャック・リッパー准将」(←切り裂きジャックのこと)
「マーキンマフリー大統領」(←「陰毛のカツラ」の意)
「Turgidson将軍」(←Turgidが「勃起した」の意)
名前だけでなく、キャラクターも「狂った軍幹部」「無能な首脳」「盲目的に指令を遂行する兵隊」と、わかりやすくデフォルメされていますね。
しかしその中で、たしかにコメディタッチでユーモラスに描いているものの、物語の本筋に関係ない異常性を示すのがDr.ストレンジラブ博士です。
ラストシーンを除けば、彼の役回りはただの「科学者A」でよかったはず。
それなのに、なぜ彼だけがあんなおかしな描かれ方をしているのでしょう?
なぜ映画のタイトルにまで抜擢されたのでしょう?
監督はただの喜劇的要素としてあんなキャラクターを創出したのでしょうか?
Dr.ストレンジラブのキャラクターを紐解く
まずは、彼がどんなキャラクターとして描かれているかを紐解いてみましょう。
彼は元々ドイツの科学者で、「移住した際に名前をアメリカ読みにした」というエピソードから、ちゃんと市民権を得ていると推測されます。
このことから、彼は『ペーパークリップ作戦』の対象だったと推測されます。
『ペーパークリップ作戦』とは、第二次世界大戦終戦前後に行われた、ドイツの有用な科学者・技術者をアメリカに引き抜く作戦名です。
審査が緩く、アメリカの市民権まで与える好待遇が特徴です。
これはなにもアメリカ合衆国が人道的に優しいわけではありません。
戦争に負けたとは言え、ドイツは高い科学力を誇っており、
当時は戦勝国の間でドイツの科学者の引き抜き合戦が繰り広げられていたのです。
もっとも、ソ連はドイツ人科学者を家族ごと誘拐して連行し、家族を人質に強制的に従属させてたので、その点では十分人道的と言えますが。おそロシア
一方で、『ペーパークリップ作戦』は科学者の確保を優先するあまり、審査が緩すぎ、人道的に問題があっても黙認するという側面もありました。
たとえば、熱心なナチ党員や、ユダヤ人を用いた奴隷労働・人体実験に荷担した者もいたとされています。
これを踏まえて考えると、
ドイツ生まれのアメリカ在住の科学者で、
手が勝手にナチス式の敬礼をするという奇癖を持ち、
「高い能力を持った人類を優先的にシェルターにいれる」という選民思想(※)を持った博士なんて、その典型だろうと察しがつきますね。
※ナチス・ヒトラーは「純血のドイツ・アーリア民族こそ進化した人類」という選民思想を唱えていた(参考文献)
キューブリック監督自身はこの選民思想に対し、どう思っていたでしょう?
嫌悪感を持っていたのか、一抹の理解を示していたのか?
しかし、両親がオーストリア・ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人であり、彼自身もまたユダヤ人であることを考えると、やはりナチスに好意的とは考えづらいでしょう。
なお、キューブリック監督自身は、Dr.ストレンジラブのモデルはフォン=ブラウン博士だと明言しています。
彼はロケット工学の世界的権威、宇宙開発に貢献した偉人でもあります。
しかし、宇宙ロケット技術とは、軍事用ロケットミサイルと裏表の関係にありました。
彼は戦前、ナチスドイツの庇護下でV2ロケットミサイルの開発に勤しみ、多くの犠牲者を生みました。
さらに戦後は責任を取ることもなく、さっさと敵国アメリカに鞍替えします。
「いつか宇宙のロケットを飛ばす」という自らの目的のために、ナチスも戦争も敵国も利用することに批判もありました。
特にキューブリック監督はじめユダヤ人にとっては、感情を逆撫でされる相手なのかもしれませんね。
ともあれ映画は、このストレンジラブ博士が「核戦争が起こるのならば、一握り知性の高い人間と大量の美女だけを、シェルターで保護するべき」という持論をぶちあげたところで幕を下ろします。
「知性の高い男=博士本人」という下心があったのは疑うべくもないでしょう。
なにしろキューブリック監督が思い描いていた続編では「地下シェルターで核戦争を生き延びた唯一の男性(!)となったストレンジラブ博士と、大勢の女性たち」を登場人物に据えていたのです。
この映画に、続編があったんですね!
キューブリック監督は続編の脚本を構想し、テリー・ギリアム氏に監督を任せるつもりでいました。
しかし結局、この続編が実現することがないまま、キューブリック監督は亡くなってしまいましたが。
とにかく、ストレンジラブ博士は、シェルターで美女たちと生き残る気が満々だったのです。
まぁ、いくら大統領にすら重用される偉大な科学者であっても、手が勝手に動く奇癖を持ち、足も不自由な博士にとって、女性にモテなかっただろうことは想像に難くありません。
映画のタイトルとなっている「私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」はここに活きてきます。
博士は核戦争が迫っていることを察し、それを避けるのではなく、自分の秘めたる願望に利用しようと画策し、そして成功してしまったんです。数多くの市民の犠牲など気にもせずに!
…これって、どこか、「ロケット開発さえできれば」とナチスでもアメリカでもミサイルを作り続けた男に似ていませんか?
そう、キューブリック監督が博士を通じて描いたのは、単なる「核兵器軍拡競争の恐怖」ではありません。
たった一人の異常者のくだらない目的のために、何十億もの犠牲者を出しかねない危険性。
秘めた欲望を持った悪魔的な男に、まんまと食い物にされてしまう、この世界の危うさなのです。
…果たして、そんなのフィクションだと言いきれるでしょうか?
本作はもう60年近くも前の映画です。
しかし、世界の抱える危険は、ちっとも変わっていないのかも知れませんね。