名作か?それとも迷作か?(笑)
この作品の構造、そしてウッディアレン監督の華麗なる女性遍歴(!)をまとめながら、映画の魅力を考察してみたいと思います。ネタバレの感想、解説ありますのでご注意ください。
「アニー・ホール」や「ブルージャスミン」を観て、なんて素敵な映画監督だろうと感動しました。そして次に選んでみたのが、この「地球は女で回ってる」。
…なんというか、大変クセの強い映画でした(笑)
原題は ”DECONSTRUCTING HARRY”
直訳すると「ハリーを分解」ってなるのかな。
後で重要になってくるので憶えておいて下さい。
あらすじ
ハリーは、私生活をネタにした小説ばかり書いてベストセラーをものにしてきた小説家。だが、最近は切り売りすべき私生活もなくなり、スランプに陥って新作を書くことができなくなっていた。そんな彼を、元恋人や友人たちが容赦なくひっかきまわしてゆく。
yahoo映画より
予告編(日本語版は見つからなかったので英語版)
自己肯定をこじらせた男の迷走
この映画はウッディ・アレンの女性遍歴を知るとなかなか味わい深いのですが、それにはまず物語の構造を知る必要があります。
この映画って、自己肯定感が鍵なんですね。
以下で詳しく考察したいと思います。
* * *
物語冒頭、ウッディ・アレン演じる人間の屑作家ハリーがスランプに陥り、ちっとも作品が書けなくなることが語られました。
そしてラストシーンでは、にわかにアイデアが沸いてきて、楽しげにタイプライターで文章を打つところで終わります。
なぜ彼が書けなくなったのか、なぜ書けるようになったのか。これこそがこの映画の核を成していて、これがわかると、一気に映画がおもしろくなります。
もちろん「3番目の妻フェイは彼にとって最愛の人だったから!」というシンプルな答えもアリだと思います。
でも、映画全体を眺めてみると、彼のスランプは「好きな人にフられたから」という単純な問題でもないと思えてくるんです。
彼のスランプの理由は、エンディングの直前のシーンにヒントがあります。
そのシーンとは
①元妻フェイとその再婚相手ラリーとの和解
そして、
②自身が創作したキャラクター達による妄想上の表彰式
でした。
ラリーとの関係性
まずは①の「フェイとラリーとの和解」を理解するために、ラリーとの関係性について解説したいと思います。
ラリーとのシーンで印象深いのは、地獄の奥深くにフェイを取り戻しにいくシーン。ラリーと対峙し、恨みと怒りをぶつけるかと思いきや、このやりとりです。
アレン「僕は悪の限りを尽くしてきた。浮気して妻たちを裏切った。娼婦を抱き酒に溺れ、薬を飲みウソをつくダメ男だ。暴力に走ることも」
ラリー「暴力?」
アレン「文芸評論家をあやうくひき殺しかけた」
ラリー「ベッドで3Pは?」
アレン「女性二人とやったよ、ガンガンやりまくったね。しかも相手は姉妹だ。名門ワスプの金髪美人だ」
ラリー「シャーマン姉妹?」
アレン「その双子姉妹だ。知人?」
ラリー「ここに」
アレン「姉妹も地獄に落ちたか。サンドラは?」
ラリー「知ってる、尺八(※)の名手だ」 ※卑猥な例え
アレン「サンドラと言えば、彼女の親友のパールと寝たよ」
ラリー「パールか」
アレン「車椅子の」
ラリー「マリーは知ってるか?」
アレン「マリーね、オツムの弱い娘だ。タンポンを鼻に詰めてた」
ラリー「目の悪い娘は?」
アレン「経験ないね」
ラリー「オツなもんさ」
何を二人で盛り上がってるんだか…。いい具合にクズ×2ですね。
一人でアマゾンを旅するラリーは非常に魅力的な男性に描かれているものの、女性関係はハリーとどっこいどっこい、倫理感のないクズ野郎ということが暴露されております。フェイ嬢、男を見る目がなさすぎる…。
そして、ハリーとラリーはおそらく、女性関係における親近感から、友情を感じていたと言うことに気づかされます。
フェイを奪われたハリーは、ラリーを悪魔だと罵倒していました。
他人を傷つけて厭わない、倫理感の欠乏!
女性への節操のなさ!軽薄さ!
いくら魅力的な男性であっても、人間としてはクズである!
…いやいや、これ全部ハリー自身のことじゃん。
彼も内心、ラリーを自分とどっこいどっこいの屑似たもの同士だと気づいていたでしょう。
ハリーにとって、ラリーは唯一自分の性癖を認めてくれる友人でしたし、(ここが大切ですが)ハリー自身が似ていると思える人間でした。
そのラリーを否定することは、自分自身を否定することになってしまうのです。彼が言い放った言葉の刃は、無意識のうちのハリー自身の自尊心を傷つけていたのではないでしょうか。
ひねくれた自己肯定
また、ハリーのひねくれた自己肯定のあり方も注目してほしいです。
彼を出産した際に母親は命を落としてしまい、父親は彼を『お前はいらない存在だ』と罵倒してきたと言います。
本来自分を無条件に愛してくれる両親に愛されず、否定されて育ってきた体験から、彼は皮肉っぽい無神論者に育ってしまいました。
おそらく、他人からの好意の実感や、周囲に愛されている実感が不足していたのでしょう。
幼い子供にとって、健全な自己肯定感を育むためにはまず、他者(親)からの肯定感が必要なのです。
その揺るがない愛情が土台となり、「自分は世界に愛されている」「自分は肯定すべき人間なんだ」と自信を持つことが、自己肯定の第一歩と言えます。
親からの愛情が不足していた彼は、おそらくその第一歩で躓いてしまったのでしょう。
しかしながら人間は良く評価されたい生き物です。
彼も成長していく過程で、彼なりの手法によって自己肯定感を育んできたのだと思います。
そう、彼の自己肯定の源は、自分の作家としての能力に対する世間的な評価と、女性をモノにできた実感なんです。
作家としての評価というのは感覚としてわかりやすいですね。
幸運にも彼は作家としての才能があったようで、『才能溢れる知的な存在』としての自己を確立していきます。
もっとも、自分とパートナーのの私生活を暴露するという手法は、倫理的に問題アリではありますが…
「女性をモノにできた実感」というのは少し注意が必要です。
彼が望んだのは、大切な女性と愛を育むことによる暖かさや安らぎではありません。「女をゲットできた」高揚感ばかりを追い求めて、それを自らの支えとしていたのです。
ま、僕も男性なので、その高揚感はとてもよくわかりますが。
しかし根本的に他者の愛情を信じるのが苦手なハリーは、「愛情を育む」という次の段階にうまく進めなかったのでしょう。
それでも普通の既婚者は、長い時間をかけて試行錯誤しながらパートナーと愛情を育んでいったりするもんです。
でも、幸か不幸か、彼はモテるんですよねぇ…。うまく愛情を育むより先に、彼は次から次へと女性を乗り換えてしまったのです。
既婚者で、人間の屑でありながら、次々と彼に惚れる女が現れるんだからすごいですよね…。
次々と相手を乗り換えてしまう彼を観てると、すげえ羨ましい、もとい、果たして幸せなのか複雑です(`・ω・´)
とにかく彼は、一人の女性と確固たる愛情を築くことより、「次々と女をゲットできる自分」に自己肯定を見いだしていったのです。だいぶこじらせていますね…。
自信喪失と復活
こうして彼はひねくれながらも彼なりの自己肯定感を手に入れてきました。
しかし、フェイとラリーの裏切りを罵倒することによって、彼はまたしても、自己肯定感を見失なってしまったのです。
「作家として成功した自分」→「いくら功績をあげていようがラリーは悪魔だ!」
「次々と女をモノにした自分」→「恥を知れ!人間の屑め!」
こうして自分の反省やアイデンティティを否定しながら、彼はスランプに陥っていったのです。
しかし、ラストシーンの直前になって、ハリーはラリーと和解し、二人の結婚を祝福しました。
もちろんラリーもハリーも本質は屑のままです。でも、根負けしたハリーは軽薄で屑なラリーを許し、祝福します。
「やっぱりお前はクズだけど、それはそれとして愛そうじゃないか。」
そんな諦めとも達観とも言える心境だったと思います。
でも、このラリーへの気持ちが、そのまま彼自身への許しとして返ってきたんです。
これ以降のシーン、ハリーはなんだかほっとした顔をしている気がします。
「やっぱり私はクズだけど、それはそれとして愛そうじゃないか」
この言葉って自己肯定の真の形じゃないでしょうか。本来、自己肯定とはこうあるべきです。
親が子供に注ぐ愛情もこうあるべきなんです。
- 「優れた作品を創ってきたから自分を愛せる」
- 「女性を何人もゲットしてきたから自分を愛せる」
これらは、裏を返せば条件付きの愛情でしかありません。
評価がなければ愛さない、あるいは評価そのものの価値観が揺らいだら愛せないという危うさを秘めているのです。
ハリー自身も、「優れた業績を残し、女を何人もモノにしてきた」ラリーを否定することで、今まで自分が信奉してきた価値観が崩れ、自分自身を肯定できなくなってしまいました。
しかし、ラリーが(あるいは自分自身が)ダメな人間であることを認め、受け入れ、その上で愛することによって、彼はようやく確固たる自己肯定感を取り戻せたのです。
ウッディ・アレンの女性遍歴が映画に反映
さて、ここからさらに深く踏み込むために、ウッディ・アレン監督自身の女性遍歴が必要となってきます。
お気づきかとは思いますが、この映画は彼の半自伝的映画でもあるのです。
ご存じの通り、彼は自分が監督、主演する映画では一貫して、彼自身のキャラクターが大いに投影された「皮肉げな無神論者のインテリ変人」を演じています。
そして今作の主人公ハリーも、ある程度のデフォルメはされているでしょうが、ウッディ・アレン監督自身の女性関係の放蕩っぷりが大きく反映されていると言えます。
彼の女性関係は映画もびっくりな代物なので、ちょっとまとめてみました。
歴代恋人たち
まず、彼が21歳で結婚しましたが、その一人目の妻とは6年ほどで破局してしまいます。彼女についての情報は多くはありません。(主人公ハリーの一人目の妻を彷彿とさせますね)
その後、女優のルイーズ・ラッサーと再婚しますが、わずか4年後の1969年に離婚してしまいます。最初の結婚より更に短い。
その次は、後に『アニーホール』で主演として抜擢することになるダイアン・キートンと交際を始めます。
彼女との出会いのきっかけはウッディー・アレンが脚本・監督を務めたブロードウェイのミュージカル『Play It Again, Sam』のオーディションでした。
ところがですね、『Play It Again, Sam』の初演は、1969年2月12日。
あれ?ルイーズ・ラッサーと離婚したのも1969年ですよね?
しかも稽古期間などを考えると、当然オーディションはずっと前にしているわけですから…。
つまり、離婚する前には、すでにダイアン・キートンと交際していた(むしろそれが離婚の原因だった)と考えるべきでしょう。
ダイアン・キートンとはわりと長く交際していたようですが、数年後に破局し、今度は女優のミア・ファローと交際を始めます。女優食いすぎるだろ。
彼女は『ハンナとその姉妹』『カイロの紫のバラ』など数々のウッディ・アレンの作品で主演をつとめています。
どうもウッディ・アレンは恋人を主演女優にするのが好きみたいですね。小室哲哉と華原朋美みたいなもんでしょうか。
ミア・ファローはウッディアレンとの間に息子をもうけ、また二人の養子を迎えました。
彼女は社会的な活動に非常に熱心で、国連親善大使も務めました。生涯で4名の子供をもうけ、さらに10人もの子供を貧困地域から養子として迎え、育て上げました。
全くもって素晴らしい方ですね。(←フラグ)
そして1992年、とんでもない事件が発覚します。ウッディ・アレンは、あろうことか彼女の養子であるスン・イーとデキてしまっていたのです!!
もちろん彼のことですから、プラトニックな純愛なわけはありません。
なにしろ事件発覚のきっかけは、ミア・ファローがアレンの部屋でみつけてしまったスン・イーのヌード写真なのですから。。
(果たしてただの「ヌード」だったのでしょうか?)
「パートナーの連れ子に手を出していた!(゚∀゚)」
「10歳の頃から娘として可愛がってきた少女と性的関係!(゚∀゚)」
「21歳と56歳、35歳差のカップル!(゚∀゚)」
彼の醜聞がメディアの格好の餌食だったのは想像に難くありません。
ミア・ファローからは訴訟を起こされ、世間からは嘲笑とバッシングを受け、彼は精神的に相当辛い時期を過ごしたそうです。
しかし五年後の1997年(ちょうどこの『世界は女で回ってる』を公開した後になります)、様々な葛藤を乗り越えたのか、ついにアレンはスン・イーと結婚をします。
しかも、彼らは二人の女の子を養子として迎えたというから驚きです。
今までの経緯を考えると、女の子の養子だけはちょっと止めといたほうが、とも思うのですが、彼も完全に開き直っていますね(笑)
許可した方もすごいよね!
ハリーは当時の自分の投影
いやはや、彼の醜聞だけでかなりお腹いっぱいになってしまいましたが、話を映画に戻しましょう。
主人公ハリーのスランプは、自己肯定感の喪失が原因だと語ってきました。
彼はウッディ・アレン自身の、おそらくスン・イーとの事件についてのバッシングで相当参っていた時期の自分を投影したのだと思われます。
主人公ハリーをあれだけ女性関係にだらしない人間の屑として描くことができたということは、彼自身も客観的に自分自身の屑っぷりを自覚していた、そしておそらく自己嫌悪で悩んでいたんだろうな、と想像できます。
最終的に彼は「やっぱり私はクズだけど、それはそれとして愛そうじゃないか」という開き直りにも近い答えに辿りついたわけですが、そのヒントをくれたのは彼自身の作品たちだったのではないでしょうか。
アレンはいくつもの作品で自分自身を投影したような奇人・変人を描いてきました。
変わり者であることはアレンにとってコミカルな魅力の源泉でもあり、強烈なアイデンティティの鍵でもあったし、なにより「他の人と違う」という自覚は彼の誇りだったと想像できます。
(僕にもそういう時期がありました…)
しかし、スン・イーの事件により、彼の“非常識さ”は世間の激しいバッシングにさらされました。
彼も今までに離婚や不倫を経験してはきましたが、ここまで世界中からバッシングされたのは初めてだったでしょう。
「自分が変人であることは、本当は誇らしいことではなかった…?」
彼は初めて、自分の価値観が揺らぐのを感じたはずです。
自分に自信がもてなくなった彼は、もう一度自分の作品をみつめなおしてみたかもしれません。カウンセラーにもかかってみたことでしょう。
映画の中に登場する自分の分身たちを見つめながら、彼は慎重に、自分自身を分解、解体(deconstructing)してみたのです。
(ここでようやくタイトルの意味が分かりました。)
自分の作品から見つけたもの
彼の映画の根底にあるものとはなんでしょうか?
正直、僕はウッディ・アレン研究家ではないし、今までみた作品も「アニーホール」「ミッドナイト・イン・パリ」「ブルージャスミン」とこの作品の4本だけです。(2017年7月現在)
だからこの作品以前となると、「アニーホール」しか知らないわけで、これだけで彼の作品を語るとは甚だおこがましい限り。
しかしまあ、彼の代表作ではありますし、最低ラインはクリアしていると信じて断言してしまいましょう。
彼の映画の魅力とは「ピュアな愛情」と「前向きさ」です。
「アニーホール」で感じたのは、とってもピュアな愛情でした。主人公が変人で奇人だからこそ、その純粋で素朴な感情が際だって、とてもかけがえのないものに感じたんです。
変わり者だったせいで大切な恋を失ってしまい、傷ついてしまった主人公。それでも彼はその傷を抱えながら、前を向いてあるがままの自分でい続けました。
当時落ち込んでいたアレンにこれほどぴったりな映画があるでしょうか?
もしかしたらアレン自身、「アニーホール」を観て励まされたのかもしれません。
むしろ、僕はそうに違いないと強く信じています。
自分が創り出した作品に、自らが励まされるという思いもかけない喜び!
その感動があったからこそ、彼は②自身が創作したキャラクター達による妄想上の表彰式を描かずにはいられなかったと思うんです。
そして妄想の表彰式でアレンは語ります。
「悲しい内容の作品でも、“解体”すると作者も気づかなかった喜びを見つけられる…」
* * *
”やっぱり私はクズだけど、それはそれとして愛そうじゃないか”
この作品が出来てから、20年もの歳月が流れました。
アレンは今でも素晴らしい作品で世界を魅了し続け、スン・イーとは今でも仲良く結婚生活を送っています。
おわり