いやー、レア・セドゥがすごかった!同性愛者を等身大に、あるがままにとらえた刺激的な良作です。
大学生のアデル(役者もアデル。同じ名前。)は、彼氏とのつきあいの中で次第に違和感を覚えていった。彼とカラダを重ねても、どこか違う。
あるとき知り合った不思議と魅力的な年上の女性エマ(レア・セドゥ)。彼女に感じていたのは友情だけではなかった。気がつくと、彼女はエマとカラダを重ねる妄想にふけるようになっていた。
エマもまた、アデルの気持ちに気づいており、そして自ら好意を示してきた…
70点
近年、急速に同性愛に対する偏見が消えつつある気がします。もちろん、まだまだ当人たちには生きづらさが残っているだろうし、改善の余地は多いのだろうけど、僕が小さい頃の空気と比べたらずっとマシだな、と。
あのころの同性愛に対する空気は“嘲笑”と“禁断”だったんじゃないかな。
この映画の素晴らしいところは、その“禁断の愛”といった空気を全く感じさせないところです。かといって、美しく幻想的な世界に浸るのでもありません。
考えてみれば、“禁断の愛”は見せ物としての同性愛であり、美しく幻想的な世界は“嘲笑”や劣等感への反動ゆえ。
そういった描き方をしなくてもいい、同性愛をただ普通に描ける時代が来たのだなぁ…としんみり思いました。
まるで、出会った二人が恋に落ちたのは当然だというかのようです。そしてその後の営みも、ノーマルのそれと全く変わらないのだと。
…特に、欲求の部分で。
フランス映画って、ホント好んで裸を入れてきますよね。この映画では絡みもばっちり描いていて、しかもけっこう長いシーンです。
「こういう人間の根幹に関わる事柄をタブー視するべきではない!」とカッコイイ信念ゆえかもしれませんが、僕は単純にフランス人がそういうの好きだからだと思ってます。だって、映画の中で気がついたら服を脱ぐシーンがあるし、フランス人の描くシーンって、どいつもこいつも“ドキドキ感”がびしばし伝わるんだもん(笑)
この映画もアデルとエマの絡みがとってもスゴいです。
それも、高まるこの気持ち!もうあなたのことしか考えられない!というドラマ上の盛り上がりで抱き合ってるのではありません。彼女たちは欲望に忠実に、ただ単純にお互いを欲して、です。
うん、もうね、すごい。同性愛者だってそういう欲求あるんだなあ、と当たり前のことをしみじみと思ってしまいました(笑)
そしてそれと同時に、どこか、人間臭さというか、親しみを感じたんですよね。
それにしてもこの映画、エマを演じるレア・セドゥの不思議な魅力が素晴らしいんです。
普段はこんな↑キュートな女性なくせに、エマを演じてる時はこう↓ですからね。
ただボーイッシュなのとはまた違う、同性愛者独特の魅惑オーラとでも言うのでしょうか。なにかがビンビンと伝わってきます。只者ではない。
同時に、自分の魅力を信じている、自信を持った人間の香りも漂ってきます。
「ああ、だから自分の気持ちに気づいていなかったアデルも彼女をみてピンときたんだな」と納得してしまえるだけのナニカを発しています。すごいなこの女優さん。
このオーラで、うぶなアデルを絡みとって引きずり込んだのですよ。。
食べ方が下品だし、枠にとらわれない生き方をしていたり、ワイルドでアウトローな性格だと思われたエマだけど、あるシーンでその見方が少し変わります。
それは、それぞれの親に相手を友人として紹介したときの一コマです。
アデルの家で出されたのはボロネーゼ。ボロネーゼとはトマトだけを使ったシンプルな、言い換えれば一番材料費のかからないパスタです。
一方のエマの家では、生牡蠣と白ワイン!いかにフランスと言えど、上流家庭であることに間違いないでしょう。その証拠にリビングにはしっかりした作りの本棚があり(象徴的!)、両親も芸術方面にも理解があり…。
アウトローな無頼派を装ってはいるものの、彼女は幼い頃から洗練された教育と芸術による重厚なバックボーンがあったのです。
そう言われてみれば、荒っぽく振る舞っていた彼女からも、レア・セドゥの気品というか、隠しきれない上流社会の香りが漂ってくるような…。
ずるくない?魅力的すぎてずるくない??
言葉では語られていないものの、アデルもこの格差に圧倒されてしまったような気がします。わかるよ、焦っちゃったんだろうね。自分はまだ何者でもない新社会人だし、一方彼女は芸術家としてオンリーワンの魅力を築きはじめてるし…
格差による劣等感からか、相手に置いて行かれるような焦りからか、二人の間には小さな亀裂が入っていきます。
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以下ネタバレ
そしてアデルは寂しさから、“男”と関係を持ってしまう!
それを知ってしまい、烈火のごとく怒るエマ。
この怒りは、凄かったなあ…(笑)
本当に火がついているかのような怒りよう。レア・セドゥさんの演技力ハンパないです。
いや、浮気したら怒るのは当然なんだけど、相手が男っていうのがまたマズかったのかもしれないです。同性愛がまだ完璧には社会に受け入れられていないコンプレックスが心の奥底に潜んでいたのでしょうか。
あるいは、エマもまた、すれ違ってしまう日々にいらだちを抱えていたのかな…。
かくして、アデルはエマに振られてしまうのですが、そこからのアデルはとっても見苦しかったです。
なんとか引き留めよう、よりを戻そうとプライドも何もない懇願にでる。
でも、そのみっともない様子にこそ、僕は驚きと親近感を覚えてしまったんですよね。
自分でも気づいていなかったけれど、「理解してあげたい」という奢った気持ちから、同性愛をどこか美化していたんだと思います。
美しい純愛、二人だけで築く素敵な世界。そんな映画的なイメージで二人をとらえていたから、アデルの見苦しい引き留めに、新鮮な驚きを感じてしまった…。
異性愛者だったら、当たり前のことなのにね。
この同性愛者に対する驚きと親近感こそ、この映画の魅力なんだと思います。
ああ、自分と変わらないじゃん、ただの恋愛じゃんって。
この驚きを、この映画をより多くの人に知ってもらえれば、世界は同性愛者にとってもう少し住みやすくなるんじゃないかな…。
さて、ラストの後の展開について。これは僕の勝手な想像だけど、アデルはきっと幸せになるんじゃないかなと思っています。
アデルは自分を受け入れてくれるのはエマしかいないと思っています。同性愛者としての自分を受け止めてくれた、だから嬉しかった。性欲も独占欲もあるがままに満たしてくれた。だから、エマに溺れた。
そう、アデルにとってエマは“初めての彼女”なのです。
僕の個人的な経験から言わせてもえらば、“初めての彼女”にはこっぴどくフられてしまうものです。ええ。(遠い目)
自分には彼女しかいないと思って、情けなく引き留めようとしちゃうし、いつまでも悲しい気分で引きずっちゃうんですよね。絶対。ぜったい。
でも、アデルはいつか幸せになります。
なぜって、“初めての彼女”に対する未練など、次の彼女ができるまでと相場が決まってます。
アデルはまだ、自分を愛してくれる人がどこかにいることに気づいていないだけです。
それにラストのロマの切なげな演奏をBGMに強く歩いていくシーン。あの演奏の音色が、フられてそれでも歩きだそうとしていた当時の僕にはぴったりなんですよね。
なんともかっこわるい話ですが(笑)
決して美しくはない。
だがそれでいい。それが人間です。
美しくはないけれど、強く、とびきり情熱的な“恋愛映画”でした。
アデル、幸せになるんだ!そして世界中のフられ男女に幸いあれ!
レアセドゥの過激な映画その2。レンタルしてねえ…観れない…
レアセドゥの過激な映画その3。やっぱりレンタルしてない(´・ω・`)