静謐な雰囲気が印象的な、いい映画でした。
しかしこの映画は、単なるフォトジェニックな「変わり者同士のラブロマンス」ではありません。
しっかり考察してみると、物語の根底には大きなテーマが横たわっていたのです。
キーワードは「勇気」と「牛と鹿」です
ハンディキャップを持った二人
「勇気」について語る前に、二人のハンディキャップについて掘り下げておこうと思います。
まずヒロインのマーリアについて。
彼女のハンディキャップは明言こそされていませんが、明らかにASD(自閉スペクトラム症。いわゆるアスペルガーや自閉症、広汎性発達障害と呼ばれていた障害)の特徴を持っています。
いわゆる学力・IQ的なところでは大きく問題がないため(むしろ記憶力がいいケースもある)、彼女も学歴・資格という面では優秀な人間でした。
しかしそれゆえに、以下のようなASDの典型症状が原因で「態度の悪いエリート」として反感を買てっしまったのです
相手の気持ちを考えずに発言し、ひんしゅくを買う
映画の中でもいきなり「手が不自由だからスプーンを使うのですね」と爆弾発言してましたね…。
これも、相手を挑発しているわけでなく、「この発言で相手がどんな気持ちになるのか」を察するのが壊滅的にヘタなのです。
最初は私も彼女がASDであることに気づかず、「顔はきれいだけど、なんて失礼な奴なんだ!このヒロイン好きになれない!」と憤慨してましたけどね(笑)
視線があいにくい、表情が乏しい
これも映画全体を通してそうでしたね。
強度のASDの人は「表情から感情を読みとる」という作業を自然にこなすことができません。
そのため相手の顔に目をやる必要性も薄く、自然と視線がさまよいがちになるのです。
(セラピー中の会話から察すると、主人公は意識的に「会話の最中は相手の目を見る」と心がけていたようです。)
しかし彼女だけでなく、男主人公もまた無口で無表情なタイプだったため、なんとも不思議な空気の映画になりました(笑)
予想していないことが起こると対応できない
若干わかりにくいのですが、男主人公エンドレが電話番号を聞いたシーンを思い出してください。
「携帯電話はもっていません」とマーリアが答えると、エンドレは慌てて「無理に聞き出すつもりはなかった」と言い、それ以降、気まずい空気が流れます。
ここ、普通だったら「あ、教えたくないとかじゃなくて、私ホントにもってないんです!電話番号ありがとうございます嬉しいです!!」的な返しを、しますよね。
でも彼女の対応は終始、
「……。」 ←目が泳いでいる
完全にフリーズしています。処理能力の限界を超えています。
彼女はダンマリを決めているのではありません。
なぜ彼が不機嫌になってしまったのか、どうやって対応したらいいかわからないのです。
ルールに過剰に拘る
Bランクの牛肉のくだりですね。
まあ、蛇足かも知れませんが、お肉は等級によってお値段が違います。Aランクだと高く売れ、Bランクだと肉の値段が下がってしまいます。
作業員の給料に直接響くわけではありませんが、業者との信頼関係もありますし、極端にBばかりにするとやきもきしてしまうのです。
感覚の過敏さ、鈍感さ
彼女の潔癖性なところが思い出されます。わずかな汚れが気になってしかたないのでしょう。
そういえば僕の職場にもASDの方がいましたが、彼も汚れ仕事の後のシャワーが異常に長いという特徴がありました。そういうことだったのか…。
変化を嫌い、いつも通りに拘る
かたくなに担当医を変えず、子供の時の先生のままだったのも、変化を嫌う現れですね。
こんな感じで、彼女は典型的なASDだったのです。
一方、男主人公エンドレは多少無口ではありますが、コミュニケーションの部分では特に問題ありません。
しかし、こと恋愛の対象として考えたとき、彼もまた大きなハンディを抱えています。
それはおそらく50代であろう年齢。そして片腕が不自由であることです。
こういうことを言うと「年齢や身体的障害で人を差別するな!」とお叱りを受けるかも知れません。
ですが、これはエンドレが自分自身をどう認識するかの問題です。
言い換えれば、「あなたが片腕が不自由な50代男性になったとき、若い女性に愛を告白する勇気があるか」という問題なのです。
おそらく、ほとんどの方が告白する勇気なんて出ないのではないでしょうか…?
エンドレの部屋でおしゃべりをするシーンで、何気なくマーリアの体に触れようとしたらビクッと拒絶されたシーンを覚えていますか?
その時エンドレは「私の勘違いだったかな」と呟いた後、色恋沙汰から“引退”だと自分に言い聞かせていたことを告白します。
彼は好んで一人でいたのではありません。
まだ誰かと恋愛できるなら、本当はしたくないわけじゃない、「しかたがない」と諦めていたのです。
わずらわしいとか、一人が気楽だとか、そういう理由もあるかもしれませんが、結局は堂々と愛を告白し、恋愛をする自信がなかったのかもしれません。
今更一人芝居のピエロにはなりたくない
このセリフは「恋心が燃え上がり、身悶えし、思いきって告白しても、実は恋愛対象としてみられていなかった」という苦しさを“一人芝居のピエロ”と表現したのだと思います。
あのシーン以降、彼の機嫌が悪くなりマーリアと距離をおいたのは、「わかっていたのに期待してしまった」という悔恨と、「期待させるくらいなら近づいてくるなよ…ッ!」という怒りゆえだったのでしょう。
それでもエンドレは電話をかけ、マーリアに愛を告白しました。
これ、すごい勇気じゃないでしょうか。
だって、50代で、体に障害があって、しかもその女性には前のシーンで身体的接触を拒絶されているんですよ…!
どん引きされてもおかしくないシチュエーションです。
普通、怖くて言えません。
一方で、自分がマーリアのように強度のASDだとしても、恋愛に踏み出すのは難易度が高いでしょう。
自分はちゃんと関係を維持できるのか?
相手を傷つけて、嫌われたりしないだろうか?
…そもそも、自分は相手に疎まれているんじゃないだろうか…?
様々な不安に囚われてしまい、やはり並大抵でない勇気がいりそうです。
マーリアもまた、出来る限りの努力をして、精一杯の勇気を振り絞りました。
勉強のためにドラマや成人向けのビデオまで観賞しました。
音楽がいいと聞けば、何十枚ものCDを聴いて恋を学ぼうとしました。(この加減を知らない感じがいかにもASDですね)
身体的接触への緊張を克服するため、公園で恋人たちを観察し、ぬいぐるみや牛に触れて練習しました。
こうして満を持して「もう一度部屋に行けます」と告げたのです。
(残念ながら彼に拒絶されてしまいましたが。)
二人とも、自分が恋愛において大きなハンディを背負っていると自覚していました。
人生を諦めていた男。絶望的に不器用な女。
それでも互いに勇気を振り絞り、一歩を踏み出したのです。
この映画は、二人の勇気を讃えた物語なんです。
そしてこのテーマを裏付けるのが、「鹿の夢」と「屠畜場の牛」という描写なのです。
「鹿の夢」と「屠畜場の牛」
実際の所、この映画において「屠畜場」という舞台はどのように機能していたのでしょう?
なにしろ、よくよく考えたら屠畜場や牛を描く必要が一切ないんですよね。
エンドレは現場に出向かない中間管理職、マーリアは解体作業には一切関与しない検査官。
ただ物語を追うだけなら、普通のオフィスが舞台でも十分に成り立っちゃうんです。
それでもこの映画は屠畜場を舞台にする必要があるんです。
「屠畜場の牛」と「森の鹿」は、それぞれ“現実と願望の象徴”なのです
実は、解剖学的に牛と鹿はほとんど同じ生き物です。
屠畜場で皮を剥いてしまえば、筋肉の構造も内蔵の形も全く一緒。
大きさ以外では見分けがつかないくらいです。
(強いて言うなら、「角が骨で出来ている」か「角は爪のようなもの」という違いはありますが)
ほとんど同じ生き物なのに、二つの生き物の描かれ方は非常に対照的でした。
黙々とリアルな死を待つ屠畜場の牛。
幻想的な美しい森の中を自由に歩き回り、水を飲み、草をはみ、伴侶と触れあう鹿。
“恋愛から引退”と自分に言い聞かせていたエンドレは、残りの人生を一人で過ごすつもりでした。
口ではこっちのほうが気楽だとか嘯いていますが、本当は孤独を感じていたのではないでしょうか。
黙々と死を待つ人生。
まるで、屠畜場の牛のようだと。
マーリアも同様です。
彼女は他人と一緒に毎日を楽しみたいという願望を抱いていました。
一人で今日の会話の反省会をしたり、同僚からお茶に誘われるのを実は期待していたり。
それでも、コミュニケーションが苦手なせいで、まるでうまくいく気配がありませんでした。
…このままでは自分は誰かと交流することなく、人生を終えてしまうんじゃないだろうか。
まるで屠畜場の牛みたいに。
実はエンドレもマーリアも同じように、自分が「屠畜場の牛のようだ」と感じ、「もっと自由に振る舞い、他者と交流できればいいのに」と憧れを抱いていたのです。
なぜ二人が共通の夢を観れたのか、それはある意味当然だったのです。
同じような職場で生き、同じような孤独を抱え、同じように「自由に歩き回り、伴侶と触れあう鹿でありたい」という願望を抱いていたのです。
二人そろって似たような鹿を夢に見ても不思議ではありません。
※マーリアは映画序盤で職場に赴任したばかりですが、食肉検査官という職業柄、前の職場も屠畜場だったと思われます。
最後の「鹿の夢を見なかった」というラストもそれを裏付けています。
現実で満たされ、もはや孤独を感じないからこそ、二人とも鹿の夢は見なくなったのです。
ちなみに細部にわたって夢も内容が一致する点については説明が付きませんが、まあそこは大目に見てください(^^;
ただ、実は「互いの夢が一致している」と確認したのは精神医とのカウンセリングと、お互いの夢を紙に書いて交換したシーンくらいで、以下は詳細を照らし合わせてはいません。
「森の中を鹿になって歩いた」という夢だった場合、鹿の行動なんてそんなにバリエーションも無さそうですし、偶然一致した可能性もありえます。
でも、個人的には偶然というより「なにか不思議なチカラが働いた」と思っていたいですけどね。
秀逸なラストの描写
ラストの朝食シーンの描写は秀逸です。
幸せそうな場面に唐突に挟まれた不穏な気配。
エンドレが不自由な手でぽろぽろとパン屑をこぼし、マーリアが神経質にそれを掃除する部分です。
この描き方、巧いなぁと思います。
なるほど物語が終わるとは言え、これで全て一件落着とは言えないからです。
エンドレは相変わらず手が不自由な事に変わりはないし、マーリアのASDの症状も改善したわけではありません。
二人からハンディキャップが消えてなくなったわけでなく、現実的にはむしろこれからが大変なんです。
ただでさえ、他人と暮らすことはストレスです。
まして相手がハンディキャップを持った人間相手には、相応の配慮も必要になってきます。
時には疲れ、ストレスを感じることもあるでしょう。
我慢が出来ず、衝突してしまうこともきっとあるでしょう。
しかしなぜ監督はハッピーエンドに水を差すような描写をいれたのでしょう?
あのまま二人が幸せになって良かったのに。
それはきっと監督が、この映画を単なる「夢物語」にしたくなかったのではないでしょうか。
この映画が描きたかったのは、二人が幸せになる様子だけではありません。
現実的な困難があっても「誰かと生きる」こと選ぶという勇気です。
そしてそれは現実に困難を抱えている人へのエールでもあるんです。
“映画の二人が勇気を持って一歩を踏み出したように、あなたも勇気を捨てないで欲しい…”
そんなメッセージを信じてもらうためには、二人に「ハンディキャップが消えて無くなる」なんて奇跡が起こってはいけないのです。
二人がハンディキャップを抱えたまま、一緒に幸せになることが大切なのです。
もう一度、思い返してください。
今までマーリアの部屋は潔癖なまでの真っ白でしたし、対照的にエンドレの部屋は妙に薄暗く、黒を基調としていました。
それが最後のシーンでは、白と黒が絶妙に混ざりあい、実に自然な朝食の空間だったのです。
二人の生活が溶けあい、ひとつの新しい生活が生まれたことを象徴するものでした。
この映画は、明確に二人の新しい生活を祝福しています
簡単な道じゃないかも知れません。
でも幸せって、その道中にこそあるのですから。